羽津小学校創立120周年記念誌

 

 

目次

   「創立120周年を迎えて」  校長  清水 英範
   「羽津小学校創立120周年をお祝いして」  四日市市教育委員会教育長  丹羽  武
   「120周年によせて」  羽津地区連合自治会長  森  安吉
   「創立120周年を迎えて」  120周年記念事業実行委員会委員長  宮田 清志
   「創立120周年にあたって」  PTA会長  大野 泰生
   沿革史    
    羽津小学校の子どもたち・PTA    
   20年の歩み    
   歴代校長の回顧    
    「創立120周年に寄せて」  20代校長  小林 文衛
    「地域の方々の善意に支えられて」  23代校長  山中 久二
    「羽津小学校と私」  26代校長  水谷 義郎
   歴代校長紹介    
   「永遠なれ、羽津小学校」  教頭  佐藤 晋輔
   卒業生の回顧    
    「思い出の羽津小」  昭和55年度卒業生  千賀 一平
    「羽津小学校の思い出」  昭和59年度卒業生  伊藤 貴弘
    「思い出す事など」  昭和61年度卒業生  山本 裕子
    「僕にとって羽津小学校とは」  昭和63年度卒業生  森  直人
    「羽津小学校の思い出」  平成元年度卒業生  是松 奈緒
    「ありがとう羽津小学校」  平成3年度卒業生  坂口 久美子
   創立120周年記念式典    
   編集後記    

 

 

創立120周年を迎えて
  校長  清水 英範

 本校が、明治7年5月10日に、光明寺境内で産声をあげてから、本年で120年目を迎えます。
 その間、明治・大正・昭和・平成と、時代の変遷とともに歩んでまいりました本校教育は、社会情勢の変化、教育制度の改革等、激動する社会の流れに適応しながら、幾多の苦難を乗り越え、輝かしい校風を築いてきました。
 創立120周年を迎えるにあたり、それぞれの時代のめざす最高の理想を教育の中に求められ、羽津地区の子どもたちの教育のために努力してこられた先人に対し、まずもって深く敬意を表したいと思います。
 昭和49年5月には、創立100周年の記念式典が盛大に開催され、以来、今日まで20年という歳月が過ぎようとしています。
 この20年間の本校の歩みの中から、主な事がらを掲げてみますと、教育環境・施設・設備の面では、給食調理室の完成(昭和50年)、南校舎側の増改築完成(昭和51年)、プールの完成(昭和55年)、屋内運動場の完成(昭和56年)、視聴覚室、多目的室の完成(平成3年)など、着々と整備されてきました。
 昭和57年4月には、児童数増加にともなって、羽津地区の多くの方々のご努力もあって、羽津北小学校の分離・独立といった大きな出来事もありました。
 教育内容の面では、昭和60年度より3年間、文部省指定による「体力づくり推進校」として、また、平成3年度には、四日市教育委員会指定の「安全教育」の研究推進校として、研究と実践をすすめ、「誠実と友愛・勉強と創造」の校訓のもと、その充実に努力してきました。
 さらに、平成4年度には、図書館教育の実践に対し、東海三県学校図書館奨励賞(三重県知事賞)を受賞しました。
 日々の教育活動推進にあたっては、PTAをはじめ地域のみなさまの暖かいご理解とご支援をいただき、職員一同、心より感謝申し上げる次第です。今後もさらに、地域の中の学校として、連携を密にしながら、本校児童の教育になおいっそうの努力を重ねてまいりたいと思います。
 最後になりましたが、この度の創立120周年を迎えるにあたり、四日市市教育委員会、羽津地区諸団体関係者、PTA及び準備実行委員会のみなさま方に、心から感謝申し上げ、ごあいさつとさせていただきます。

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羽津小学校創立120周年をお祝いして
  四日市市教育委員会教育長  丹羽 武

 羽津小学校が本年、創立120周年を迎えられました。心よりお祝い申し上げます。
 本校は、明治7年5月、羽津学校として開校されました。その後、額田学校、羽津尋常小学校、羽津国民学校、羽津小学校など、数回の名称変更あるいは校区の統廃合を経て、昭和24年から羽津小学校として現在に至っております。
 本校の長い歴史を振り返りますと、学制以来の小学校の変遷を目の当たりに見る思いがいたします。この間、地域の学校として、多くの方々がここに学び、巣立っていかれました。また多くの方々から愛され、支えられてきました。校歌に「‥‥‥羽津の学び舎なつかしや」と歌われるように、そうした地域の方々の学校に対する思いの深さは、計り知れないものがあります。
 このように羽津地区の教育の中心として地域に密着した教育を推進してきた本校ですが、近年では、昭和62年に文部省・県教委・市教委の指定により、「ひとりひとりが楽しんで取り組む体力づくり」のテーマを掲げ、「体力づくり」の研究発表会を開催されました。その取り組みに対しては、四日市市のみならず三重県各地あるいは全国の参観者から多くの賛辞を得たことは記憶に新しいところであります。子供の体力の問題は学校教育において大きな課題であり、それを取り上げられた慧眼に深甚の敬意を表するものです。さらに当時の成果は現在にも脈々と受け継がれ、校訓である「誠実と友愛・勤勉と創造」と相まって、充実した教育活動が展開されていることは周知のとおりであります。
 今、世界は刻々と変化し、わが国もその例外ではなく、そのうねりの大きさと変化のスピードはますます加速していくことが予想されます。この新しい時代に対応できる子供を育成するため、さまざまな教育改革が進められています。地域に立脚する小学校は、地域とともに歩むことが必要でありますが、その点、長い歴史を持つ羽津小学校のあゆみは、市内各小学校の範として期待が寄せられているといっても過言ではありません。
 この栄えある120周年の契機として、きたるべく21世紀をたくましく生きていく子供の育成に、地元の方々をはじめ学校関係者の、みなさまの一層のご尽力をお願い申し上げるとともに、羽津小学校のますますのご発展を祈念いたしまして、お祝いの言葉とさせていただきます。

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120周年によせて
  羽津地区連合自治会長  森 安吉

 羽津小学校創立120周年記念誌が、発行されるにあたり、心からお祝いを申し上げたいと思います。
 月日のたつのは誠に早いものですが、過ぎ去ったいくつかの思い出を記してみたいと思います。
 私が入学した当時の羽津小学校は、羽津尋常小学校とよばれ、規模は今の半分ぐらいであったと思います。東に伊勢湾、西に垂坂山。夏は海水浴、秋は遠足にと実に環境に恵まれた学校でした。
 戦後はますます発展し、現在では羽津北小学校もでき、今日両校ともりっぱな学校に成長してまいりましたことは誠に慶賀のいたりであります。
 太平洋戦争では、先輩・同級生の多くの人びとがお国のためにとはいえ、尊い命をささげられたことは痛恨のきわみであり、深い悲しみがわいてきます。今は、ただただ冥福をお祈りするばかりであります。
 また、忘れることができないのは、集団赤痢の発生であります。平和な小学校に発生した伝染病の猛威は、地区全体にも広がり、一瞬にして羽津地域が恐怖のるつぼと化したことは、今思い出してもなお身震いするほどであります。
 昭和49年5月の100周年記念事業にあたっては、昭和47年に卒業生代表、自治会、PTA代表と当時の学校長の四者で話合いがもたれ、第1回の準備委員会は志氐神社で行われました。7、8回の準備委員会ののち、小学校の講堂において同窓会結成総会と100周年実行委員会の結成を行い、地区全体の発展のため大変貢献された柏木一三氏に会長をお願いしました。そして、同窓会をはじめ地域全体のご協力により、「羽津小学校百年史」の発行など、かずかずの記念事業も完成したのであります。
 私たちの小学校時代は、軍国主義の手きびしい教育で、先生方も非常にきびしいものでした。近年は青少年の非行が多いなかで、本校の子どもたちは、のびのびと良い子に成長してくれています。これも先生方の日々のご努力のおかげであり、この功績は実に偉大であり、心から尊敬の意を表すものであります。
 最後になりましたが、今後とも学校の教育環境をなお一層よくしていただき、ますます発展されることをお祈りしてお祝いの言葉といたします。

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創立120周年を迎えて
  120周年記念実行委員会委員長  宮田 清志

 創立120周年おめでとうございます。
 平成6年にて創立120周年を迎えられることになり、昨年度実行委員会を設立し、盛大な式典を開催するはこびとなりました。これもひとえに関係各位、地区のみなさま方のご支援、ご協力の賜物と深く感謝いたします。
 さて、120周年と言葉で言いますと簡単ですが、実に一世紀を越え、その間に明治、大正が終わり、昭和も幕を閉じ、平成の世になり、激動の歴史をつぶさに見ながら羽津小学校は創立120周年を迎えたのであります。
 私も今を去ること30数年前、この羽津小学校を卒業いたしました。当時木造だった校舎は今では鉄筋に変わり、だるまストーブは電気ヒーターに変わり、教室にはビデオやテレビ、校庭にはりっぱなプールがあり、今、学校には私の卒業当時の面影はほとんど残っていません。その中で大きく枝を広げる桜の樹は、当時と変わることなく、春には木が折れるほどの花を咲かせております。毎年飽くことなく花を咲かせ、散らしながら少しずつ成長する桜のように、羽津小学校も時代が変わろうと、変わりようのない教育の理念と独自の伝統を守り、少しずつ成長してまいったものと思います。
 本校は、ただ無条件に時代の変化を受け入れるのではなく、昔のよいものを残し、今日までの精神的伝統が受け継がれている学校です。
 これも、ひとえに校長先生はじめ先生がたのご努力の賜物と、頭の下がる思いです。
 これからも、この伝統が守られ、さらに150周年、200周年と羽津小学校がますます発展するよう願い、120周年のご挨拶とさせていただきます。

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創立120周年にあたって
  PTA会長  大野 泰生

 新緑の風香る今日、羽津小学校はここにめでたく創立120周年を迎えることができました。
 この間、幾多の風雪にも耐え、建学以来今日まで、あまたの卒業生が巣立ってまいりました。これもひとえに羽津地区のみなさま、PTA諸先輩の方々、先生各位のご支援、ご協力の賜物と厚くお礼申し上げます。
 さて、近来の産業経済の発展、拡大に伴い都市部中心に人口のドーナツ化現象を起こし、その影響による児童数の減少で学区割の変更、学校の統廃合という状況にいたっているようです。
 そういう中で、本校が創立以来今日まで長い歴史を刻みつつ存続できましたのは、当羽津地区住民のみなさまのご尽力にほかなりません。この記念すべき日を迎えるにあたり感慨にたえません。
 私事で恐縮ですが、実は私も本校の卒業生でして、在学中に創立90周年に奇遇することができました。それから30年を経て、現在私の息子たちも本校で先生方のお手を煩わしております。その当時はまだ木造の校舎・講堂で、施設面ではまだ不充分なところがありましたが、恵まれた自然環境の中で伸び伸びと過ごし、楽しかった運動会や遠足などが昨日のごとく思い出されます。
 時代が変わった今日でも、教育においては師弟の心と心の交流、人間に対する愛情は変わりありません。本校の校碑「静謐と友愛、勤勉と創造」の精神が、今も受け継がれている気がいたします。今後もこの精神を引き継ぎ、本校から地域社会に貢献する多くの人材を育成し、希望と夢のある21世紀に向かって、羽津小学校が130周年、150周年を迎えられますことを心よりお祈り申し上げます。
 最後に創立120周年記念式典、記念事業、記念誌発行の準備、作成にあたり昨年より学級菜園奉仕作業、度重なる打合せなど実行委員の方々には大変お世話になりました。ここに改めてお礼申し上げる次第でございます。
 今後とも引き続き羽津小学校の一層の発展のためご支援、ご協力をよろしくお願い申し上げます。

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羽津小学校沿革史

 

 明治  7  5    学制発布により光明寺境内に「羽津小学校」誕生
     6    「人民共立学校」と改称
   12  5    「額田学校」と改称
   14  3    木造2階建 独立校舎完成(通称「ちょんぼり校舎」)
   20  4    羽津簡易科授業所と改称
     8    羽津小学校と改称
   23      羽津尋常小学校と改称(4年制)
   36  10    現在地に新校舎建築
   38      高等科(2年制)を併置し、羽津尋常高等小学校と改称
   41      義務教育が6か年となり、高等科を吸収し、羽津尋常小学校と改称
   43      高等科(2年制)を併置し、羽津尋常高等小学校と改称
 昭和  4  3    木造講堂完成
   18  4    四日市市に合併、国民学校令にもとづき、四日市市立羽津国民学校と改称
   22  4    「六・三制」の実施により四日市市立羽津小学校と改称
   23  5    学校の統廃合により、山手小学校(旧海蔵小学校舎)が併設され、本校児童は同校に通学
   24  7    四日市市立羽津小学校が復活し、前の校舎にもどる
         木造第3校舎新築 給食室完成
         学校給食はじまる
         木造第3校舎西側に1教室増築
   37  2    羽津小学校に集団赤痢発生
         地区患者数-約800人
   39      創立90周年を祝う(「90年誌」発行)
   42      鉄筋3階第一校舎(北側道路沿)6教室完成
   43  4    鉄筋3階第一校舎に6教室増築
   44  4    簡易プール完成(8m×16m 水深85㎝)
   46  4    鉄筋第一校舎東側に3階建12教室増築
   48  5    鉄筋第二校舎3階建9教室完成
   49  5    創立100周年記念式典を挙行
         陶芸室・岩石園等の記念事業を行う。
   50  5    給食調理室完成
   51  3    鉄筋第二校舎東側に管理・特別・普通教室を含む14室増築
         国旗掲揚塔新装移転
   54  3    北通用門完成
   55  7    本格的プール完成
     10    中庭にプレハブ陶芸室完成
   56  3    体育館完成 西通用門完成
   57  3    クラブ用コート・体育館前築山・北門周辺の舗装完成
     4    羽津小学校より、羽津北小学校が分離・新設 本校児童数849名
   58  3    プール横に水生植物園完成
   59  3    運動場築山完成
     7    運動場整地と散水装置完成
   60  2    第一図書室・第二図書室・図工室改修
     4    文部省指定「体力づくり推進校」(3年間)となる
     8    クライミングネット・丸太橋完成
         運動場北側フェンス・中庭・体育館渡り廊下に排水溝完成
   61  1    砂場完成
     3    固定式低鉄棒(21連)設置
   62  10    文部省・県教委・市教委指定校となり、「体力づくり」について研究発表を行う
 平成  3  4    視聴覚室・多目的室完成
         市教委指定「安全教育」の指定校となる
   4  9    学校週5日制の実施により、毎月第2土曜日が休業日となる
   5  2    平成4年度東海3県学校図書館奨励賞で、三重県知事賞を受賞
   6  5    創立120周年記念式典挙行 記念行事として学級菜園完成 楓7本を植樹
         「120年誌」発行

 

 
 

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羽津小学校の子どもたち・PTA

春・夏

  
   
 ■学校行事  
   4月  春の遠足  
   5月  交通安全教室  
     お弁当給食  
   6月  プール清掃  
     プール開始  
     修学旅行  
       
 ■PTA  
   5月  樹木消毒  
   6月  研修旅行  
     給食試食会  
   7月  交通安全キャンペーン  
     救急実技講習会  
   8月  PTA奉仕作業  
       
       
       
       
       
       

秋・冬

 ■学校行事
   9月    運動会
   10月    羽津ギネス
   11月    三泗音楽会
   12月    なわとび集会
   1月    新年試筆大会
       かるたとり大会
   2月    陶芸展
       マラソン大会
   3月    卒業生を送る会
       
 ■PTA
   9月    学年行事
   10月    料理教室
   11月    講習会
   3月    「しでがの」発行
         (7月、12月)
       
       
       
       
       

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20年の歩み

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歴代校長の回顧

創立120周年に寄せて
  20代校長  小林 文衛

 このたび羽津小学校創立120周年を記念して、小学校記念誌が発刊される運びとなりましたことは、まことに同慶にたえません。
 私が羽津小学校に勤務致しました時は、開校百年の意義ある年にあたり、記念事業が計画されている時期でした。20年を経た今日も、当時のことがつぎつぎと浮かんでまいります。
 オイルショックで日本中が大騒ぎをしている中、柏木一三様を実行委員長として、PTA役員、同窓会役員、羽津地区全自治会を中心着々と進められていきました。『おらが学校』と燃えるような熱意で、記念事業に協力されたことを思い起こします。
 「今、学校は何が必要ですか」と呼びかけを受け、率直に申し上げたことは、まず校舎の増改築でした。児童数1213名。学級数31クラス、特殊学級24名2クラス。児童数が年々増加し、教室が足りなく、プレハブ6教室を入れても普通教室だけで、特別教室を設けることができない状態でした。地元と市当局のご努力で、計画された年より3年間で、つぎつぎと増改築されました。表に出ない百周年記念事業と思われます。第1年目は普通9教室を新設、プレハブ教室を特別教室に切替え、第2年目(百周年の年)旧普通教室を取りこわし、新給食室の建築後旧給食室の取りこわし、第3年目は、立派な木造の講堂を間仕切りして職員室を移し、旧管理棟をこわし、新管理棟と特別教室が生まれたわけです。100周年記念事業としては、◎1クラスが一斉に足が洗える足洗い場の新設、◎岩石園の設置、◎平行して気象観測の百葉箱の新設、◎低学年用の遊具2基、◎学校図書の充実(百科事典等)、◎児童が読んでも解り易い百周年記念誌の発刊、◎羽津小学校同窓会名簿の発刊、◎伝統の陶芸教室の焼釜と付属品、◎記念碑の建立 元楠公銅像のあった立派な台座だけが残っていましたので、これに百周年を記念して碑を建て、校訓的な字句を入れることになりました。実行委員会方々の発意で、隣に二宮尊徳(金次郎)の像が立っていて、そこには『勤倹力行』の語句が刻まれています。また大正時代から伝えられている校訓『誠』の精神を取り入れ『誠実と友愛、勤勉と創造』の字句が選ばれました。21世紀に向かう羽津っ子にふさわしい語句だと信じ、私も家訓にしたいと存じている次第です。在校生一同には、この字句を入れた文鎮が配られました。20年歳月を経た現在も、当時のまま保存・活用されていることは、誠に喜ばしいかぎりです。伝統を重んじる羽津小学校であることを改めて実感している次第です。
 校庭の東北に亭々とそびえる十数本の黒松は100年以上の齢を重ねていると思われますが、羽津小学校の歴史を物語っているようです。
 丘あり、平野あり、海岸あり、そして東海道(国道一号線)の通る交通要所のめぐまれた羽津地区は、年ごとに発展し、人口も増加して成長致しました。兄弟校ともども、創立120周年を記念して、一層の誇りを持って21世紀に向かって前進されることを祈念いたします。

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地域の方々の善意に支えられて
  23代校長  山中 久二

 県下一の1370有余人の児童が、運動場に集会し、活動する姿は圧巻であった。当時は、運動場の東南にさまざまな遊具が設置されていて、現運動場より狭く、一段と児童の多さが目立った。体育館での集会は、児童の出入りの時間と安全を図るため、学年の順位を決め、その効率を考えた。館内では先生方が、押されるように一列に並ぶ盛況さであった。
 このような遊び学ぶ生活環境の中で、旧講堂跡は土砂で埋められたままの未整地であったし、体育館の前庭も土砂の盛山であった。
 これらの環境整備をと考え、旧講堂跡に小球戯場を、体育館前に築山を造成していただいた。さらに、北門付近を整備して植樹し、北門から玄関までと水飲み場の流しを含めて舗装していただいた。
 これらの財源は、地域や保護者の方々の善意によって蓄えられた保険の浄財を活用させていただいた。当時としては一応の環境の整備ができた。現在では、市の方で相当の面倒を見てくれるが、当時は小・中学校とも分離新設校が多く計画されていて、市の費用はその方に割愛された。現在も含めて、保険の浄財は教育環境の整備のための大きな支えとなり、貴重な財源として有難く、尊いものであると感心させられている。また、この浄財が新屋として分離した羽津北小への贈物となり、それが、新屋でも有効に生かされたと聞いている。
 こうして、地域や保護者の善意と支えによって学習環境を整えていく半面、新屋の北小を母屋から分離し、創立していく作業が平行して進められた。作業の主体となるPTAの役員会は、母屋と新屋の役員の方々の構成で議題が練られた。
 こうした1年間の役員の方々の協議の積重ねは、新設なった北小への備品の運搬作業にすばらしい力として発揮された。この陰には、北小分離担当の平田清則先生の運搬作戦図が大いに役立ってくれた。両校の上級の児童がそれぞれの学校に分かれ、運び出す作業・運び入れる作業を、先生方の指導によって行い、両行間の運搬をPTAの方々によって車で処理いただいた。PTA以外の青少協の役員の方々まで車で応援いただいたことが、強く心に刻まれている。
 かつて、笹川東小の教頭時代、四郷小からの分離創立作業、翌年笹川西小新設への分離作業、3年後には責任者として三重北小新設のための三重小からの分離作業に携わった。これらの作業が苦しい中で、何日も続いた経過があった。羽津北小への移転作業が短時日に手際よく進められてことが、より成就感をおぼえる活動だったと心に残っている。
 これもひとえに当時の地域や保護者の方々の善意と、支えによるものと感謝したよき想い出である。

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羽津小学校と私
  26代校長  水谷 義郎

 休憩時、子供たちが校長室を訪れ、話しかけてくることがしばしばあった。
 「校長先生、年寄りやなあ。うちのおじいちゃんと同じや。頭も禿げてるし。」
 「そうやな。でもね、若くて髪が沢山ある頃もあったよ。」
 「信じられへん。」
 「20年前にね、この羽津小で先生してた時の卒業アルバムがあるから見せるよ。」
 「ほら、これだ。」
 「本当や。」
 子供たちと付き合いがなかったかこのことは写真でも見せなければ「ウッソ」になる。
 私は昭和41~42年と61~62年の2回、羽津小でお世話になった。「なんだ、わずか4年間じゃないか」と言わないでほしい。その間の中身は、8年にも10年にも匹敵するくらいの濃さがあった。
 初めは、四教委指定の図工科教育研究校であった。そうとは知らず、南中学校から転任してみて吃驚。一からの出直しで、もう遮二無二やるしか道がなかった。
 いくら器用でも、イメージが貧弱であればいい作品は望めない。感覚を研ぎ、豊かなイメージの持ち主になること。これが先生・子供たちの共通の課題になり、互いに思いをぶつけ合い、また環境を整えなければならなかった。悪戦苦闘の毎日であったが、緊張感や爽やかさ懐かしく思い出される。
 次はまたまた、文部省指定の体力づくり研究校。来年は、研究の結果を発表するという。やっぱり知らないままの赴任で、私のアンテナの低さに呆れた。
 心境は、当時の流行語「ヤルッキャない」「どんな子供たちにしたいの。」
 昨年度、事前研究を行った先生方にたずねたところ、大体こんなことであった。
・動くことを嫌がらない
・互いの体力、運動能力を分り合って、用具を工夫したりユニークなルールを設けたりして、仲間と共に遊ぶ。
・自分の健康に関心を持ち、増進・改善の計画をたてて実行する。
 室内にこもりがちな子供たちを、なんとか戸外遊びへ誘いたいというのが始まりであった。
 子供の生活は遊びがすべて、その中で身につけることが成長の基になる。「子どもは遊びの天才」という。条件が整えば全くその通りになるだろう。
 「子供たちが伸び伸びしており実にダイナミック。さまざまな工夫もあって楽しい。」参観者のこの言葉がありがたかった。
 熱心に取り組んだ先生方、それを支援してくださった保護者の方々、でも、一番の功労者は子供たちであると思っている。
 子供の健全教育に情熱を注ぐ地区の方々に見守られ、歴史と伝統が脈打つ羽津小学校と子供たちに栄光あれとエールを送りたい。

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歴代校長紹介

 

     
 第20代 小林 文衛 氏  第21代 村木 明義 氏  第22代 村上 忠夫 氏
     
     
 第23代 山中 久二 氏  第24代 原 直矢 氏  第25代 佐藤 稔 氏
     
     
 第26代 水谷 義郎 氏  第27代 宮崎 淳 氏  第28代 杉沢 和夫 氏

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永遠なれ、羽津小学校
  教頭  佐藤 晋輔

 今年は暖かな日が数日続いたせいか、校庭の桜は入学式にちょうどあわせるかのように一斉に満開となりました。4月6日、桜並木の花トンネルをくぐって登校した新1年生を迎え、120周年の記念すべき入学式が行われました。会場となった体育館の正面には、創立当時に書かれたものでしょうか、右書きでりっぱな「羽津小学校」の額が掲げられており、羽津小学校の歩みをずっと見守り続けてくれています。
 時あたかも120周年を迎える平成6年は、21世紀を目前にして、明治以来の「第三の教育改革」が推進されているさなかでもあります。本校では、「豊かな心で、学び支え合う子ども」を教育目標にかかげ、自ら学ぶ意欲と自ら考え判断し行動できる子どもを育てるべく教職員が一体となって取り組んでいるところです。
 このたびの記念事業で、私たちの永年の願いであった“学級菜園”(花壇)を、北校舎と南校舎前に9面にわたって造っていただきました。これからは思いきった栽培活動ができるようになり、心より感謝しております。
 また、記念植樹として“かえで”(楓)を7本、バスケットコートの南側に植えさせていただきました。子どもたちが大きくなるころには、校庭の木々の中に、この楓も加わり、みごとな紅葉をいっそう引きたててくれるに違いありません。そして、成人した卒業生たちが学校を訪れるたびに、松や桜や楓の木立ちをみながら120周年当時のなつかしい思い出を、わが子に語り伝えてくれることでありましょう。
 「120周年を迎えるこの伝統ある羽津小学校を母校に持つことは、わたしたちのほこりです。ありがとう羽津小学校!」これは、今年の3月、卒業生たちが、卒業式の“別れのことば”でのべていった一節です。羽津小学校で育まれた子どもたちの心には、いつまでも良き思い出となって残り、次の飛躍へのバネとなってはばたいてくれるものと信じております。
 120周年という輝かしい年に、羽津小学校に勤務させていただいた私たち教職員は、生涯忘れることのできない金字塔として、誇りをもってこれからの人生の糧にしていきたいと願っております。
 最後になりましたが、120周年を迎えるにあたり、昼夜をいとわず、栄えある式典の諸準備や記念事業を推進していただきました実行委員のみなさまをはじめ、これを支えていただいたPTAのみなさま、地域のみなさまに心からお礼を申し上げます。

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卒業生の回顧

思い出の羽津小
  昭和55年度卒業生  千賀 一平

 高校を卒業して、大学、就職と7年来四日市を離れていることもあり、最後に羽津小学校を訪れたのはいつか、思い出せない程になっていました。この原稿依頼をいただき、私自身小学校当時のことを思い出す良い機会を与えていただいたような気がしました。そこで、正月の帰省の際に、久しぶりに立ち寄ってみました。10年近く、来たことはなかったはずですが、なぜかそんな気がしませんでした。つい、この間までここにいたと、そんな感じさえしました。私はいた時とほとんど変わりがなかったせいかもしれません。鳥小屋を掃除したこと、掲揚台の下で好きな子の話をしたこと、中庭で手打野球をしたこと、体育館落成式で謝辞を述べたことなど、校庭にいる短い時間につぎつぎと色々な思い出が溢れ出てきました。小学校の当時、一日はとても長い時間で、一日の間にさまざまな事件を経験していたように思います。
 この先、羽津小学校は私はいた当時の姿を留め続けることはないでしょう。しかし、いつ訪れても当時のことを思い出させてくれる存在であり続けてくれると思います。また、特に私のように四日市を離れている方に、一度機会を見つけて羽津小学校を訪れることをお薦めします。きっと、日頃忘れていた幼き少年時代を、思い出すことができるでしょう。

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羽津小学校の思い出
  昭和59年度卒業生  伊藤 貴弘

 私が羽津小学校に入学した頃は、ちょうどベビーブームの煽りを受け、市内でも有名なマンモス校でした。3年生になると同時に羽津北小学校と2つに分けられました。友達と分かれた時の寂しかった気持ちは今でもはっきりと覚えています。
 現在でも取り入れられている陶芸教室は私達の時代も行われていました。窯から出された作品を最初に見るときには壊れていないか、とても不安でした。ユニークなこの授業はこれからもずっと続けてほしいと思います。
 私が6年生でちょうど生徒会長をやらせていただいていた時、アフリカのめぐまれない子供達のために、全校生徒が少ない小遣いを出し合い募金したこともありました。その時の新聞記事は、今でも大切にアルバムに保管してあります。そしてサッカーとの出会いもこの頃で、現在もチームを組んで続けています。この他にもまだ書ききれない程、たくさんの思い出があります。
 また、羽津小学校とのおつき合いは、夏休み期間のプール監視を3年間やらせていただいたことです。無邪気に遊ぶ子供達に接していると、当時のことが懐かしく思い出されます。
 最後に伝統ある羽津小学校の歴史にこれからもたくさんの足あとを刻んでいってください。

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思い出す事など
  昭和61年度卒業生  山本 裕子

 それは4年生の、とある日曜の昼下がり、私はある友人と校庭の回旋塔で遊んでいた。「止めて」と言ったらすぐ止める、という約束で彼が回旋塔を回し、私はしばしの間、遠心力の素晴らしさを堪能していた。
 なんと平和な光景であろうか。
 そのうち手が痺れてきたので「もう止めて。」と言ったが、面白がってか彼は止めない。それどころかますます速く回し始めたではないか。これはどうしたことだ。彼は私を裏切ったのか?とにかくまずい。非常にまずい。このままでは降り飛ばされてしまうには必至だ。助けを呼ぼうにも辺りに人影は見えない。なぜだ?これは仕組まれた陰謀なのか?言いようもない恐怖が私を襲った。地上1.2mほどのところを私の体はすごい勢いで回転している。「とっ、止めてぇぇ。」
 冷汗で手が滑り、遊具から手が離れた瞬間、遠心力が重力を凌駕していた――すなわち、「うっ、うわあぁぁ。」という叫び声を残して私は宙を舞っていたのだった…。
 何年も経ってから、ふとこんな日常的な記憶の断片が浮かび上がってくることがある。小学校時代とはそういうものであればよいと、私は思っている。

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僕にとって羽津小学校とは
  昭和63年度卒業生  森 直人

 本当に僕なんかが創立120周年の記念誌の一部を書いてよいのだろうかと思いつつ……。
 僕は羽津小学校ではいろんなことをしてきた。教室でドッジボールをやり、ガラスを割って校長室でおこられたり、雨でもグランドへ出てサッカーをしたり、その他、いろんなことをしてきたが、はっきり言って、僕の小学校生活は、遊ぶことしか考えていなかった。“学校は勉強するとこ”と言うイメージは全くなかった。だけど、遊ぶだけの僕でも、学級委員や代議員にはよくなった。その理由は今だから言うが、役員章を胸の名札につけるのが僕はかっこいいと思っていた。だから、毎日名札の重みはなんかいい感じがしてた。けど、会長となった6年生の後期は、何か今までとちがうまじめさがあったように思う。会長だから変なことはできないという気持ちはあった。まじめさは出てきたが、やっぱり慣れるとよくさぼったように思う。羽津小を卒業してから何回か羽津小に行っているが、そのたびに小学校の時のような新鮮な気持ちになるのは、学校の様子が変わっていないからだろうか。僕にとって羽津小は、心身ともに今の僕の基盤となるものを作っててくれたところであり、また、親のような存在であたたかく受けとめてくれた思い出の宝庫だろう。

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羽津小学校の思い出
  平成元年度卒業生  是松 奈緒生

 私の一番の思い出といえば、児童会の会長を半年の間やらせていただいたことです。選挙演説では恥ずかしいながらも歌ったり、踊ったり何とかして目立とうと必死でした。その甲斐あって一票差で当選することができました。しかし、会長らしいことが何一つできず、先生には「会長なんやで。」と何度か叱られることもありました。その頃の私は会長になれて良かったという気持ちを忘れてしまい会長になんてならなければ良かったと自分なりに悩んだりもしました。そんな私にやる気を与えてくれたのは先生の熱意と児童会の仲間でした。一緒に劇をしたり話し合いをした時助け合いながら一つ一つの仕事を確実にこなすことができました。そのいい仲間と先生方がいらっしゃったからこそ会長という大仕事をやってこられたのだと思います。そして、私はこの仕事を通して大きな満足感と充実感を得ることができました。

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ありがとう羽津小学校
  平成3年度卒業生  坂口 久美子

 小学校での生活を思い返してみると「あんな事もあった、こんな事もあった」とたくさんの出来事を思い出します。1年生から6年生、各学年それぞれに思い出はありますが、その中でも一番多くの思い出ができたのは6年生です。後期の児童会会長をさせてもらったのはよい経験となりました。初めての児童会の時は、どうやって進めていったらいいのか分からず、とまどったりもしました。集会などやってみるとすぐ終わることでも実際、進め方や割りあてなどを考えたりして計画を立てるにはとても時間がかかりました。一人では無理なことも、副会長さんや書記さんと協力しやりおえることができ、またうらで仕事を進める大変さも学びました。やっぱりやめておけばよかったなあと不安になったりもしたけど、今は会長という仕事をやらせてもらってよかったと感じています。会長としての仕事をやりおえることができたのも他のメンバーがいてくれたからだと思っています。「6年間」と言葉で聞くと、とても長く感じるけど、私にとっての「6年間」はあっという間に過ぎ去っていきました。たくさんの先生や友達と、楽しい小学校生活が送れたと思います。

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創立120周年記念式典

 創立記念日  5月10日
 記念式典   5月9日挙行
   校歌斉唱

 

式 次 第
   開式の辞          
   校歌斉唱          
   学校長挨拶                      
   実行委員長挨拶        
   PTA会長挨拶        
   来賓祝辞        
     教育長祝辞        
     連合自治会長祝辞        
     同窓会長祝辞        
   来賓紹介        
   祝電披露        
   120周年記念事業目録贈呈        
   閉式の辞        
           
   児童合唱        
     「気球に乗ってどこまでも」(5・6年)
     「春の風」(5年)  
     「旅立ち」(6年)  
       
来賓の方々 
 実行委員長より記念品目録贈呈 実行委員会の方々 
   
    児童合唱(5~6年) 
 校内図画描写(1~4年)  

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記念事業

 

   1.記念品
     ●航空写真入り下敷き(児童用)
     ●湯呑みペアセット(式典参加者用)
   2.記念植樹(楓)
   3.学校菜園・花壇の整備
   4.120周年記念誌
   5.記念式典
   

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編集後記

 羽津小学校創立120周年を迎えるにあたり、私たちは創立100周年以降の羽津小学校のあゆみを記録し、次の世代への贈り物にしたいと考え、記念誌の作成にとりかかりました。
 編集の基本方針として、気軽に見ていただけるもの、時折取り出して眺めていただけるものをと考え、写真を多く取り入れた「目で見る120周年記念誌」にすることを心がけました。
 しかし、資料収集から、わずか1年たらずの仕事なので、せっかくの資料を充分活用させていただくことができず、誠に申しわけなく思っています。
 編集にあたり、大変ご多忙にもかかわらず、原稿依頼に快く応じて下さった教育長様をはじめ、歴代校長先生、連合自治会長さま、他のみなさまに厚くお礼を申しあげます。
 また。卒業生のみなさまには、幼き少年少女の日々を執筆いただき、本誌を内容豊かなものにしていただくことができました。
 最後になりましたが、カット・題字でご協力いただきました、宮崎淳先生、杉沢和夫先生に心からのお礼を申し上げ編集後記といたします。

  平成6年5月
           羽津小学校創立120周年記念誌編集員会

 

創立120周年記念実行委員
 荒木 良樹  平岡 千明  宮田 清志  森  泰司
 壷内 邦夫  大野 泰生  角屋 賢一  加藤 勝功
 森  俊昭  森  孝之  内田 節子  伊藤 妙子
 山田 明美  前野  薫  正岡 智子 奥村 良美 
 天春 さつ子  佐久間 照美  奥村 順子  武智 由子
 大森 京子      
       
 清水 英範  佐藤 晋輔  川辺 雅史  松原 慎二
 生川 茂子  平子 昇香  中西 敬子  小川 美和子

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