羽津小学校90周年記念「校誌」

 
     表紙の文字は、四日市市長平田佐矩氏が揮毫
   
   
   
 

 

目次

   巻頭言・祝辞    
    発刊のことば  学校長  伊藤 寛一
    「校誌」によせて  教育長  山本 軍一
    祝辞  衆議院議員  山手 満男
    御祝辞に代えて  市会議員  坪井 妙子
    祝辞  羽津自治会連合会長  伊東 直作
    九十周年に望む  PTA会長  大野 登
    発刊によせて  PTA副会長  森 安吉
    校誌編集に寄せて  PTA副会長  平野 和子
    校誌発刊によせて  文化部長  山本 鉄男
    汲めども尽きぬ思い出を  PTA役員  森 沢男
    お祝いの言葉  PTA役員  服部 律生
    思い出  19代校長  金森 重雄
    私の思い出  21代校長  粕谷 真一
    追懐  22代校長  辻 博也
    校恩報謝    梅本 茂一
    我が母校の今昔    矢守 貞吉
    校史編集に寄せて  校医  梅本 金五
    六十年の影  2・3代目PTA会長  藤井 由三
    偶感  4・6・7代目PTA会長  小川 孝
    所感  5・9・10・14代PTA会長  大森 光栖
    所感  8代目PTA会長、羽津農協組合長  味香 太郎
    校史によせて  11・12代PTA会長  加藤 彰良
    台風の思い出  13代PTA会長  森 良
   【沿革の概要】 初等教育のあゆみ    
    概説    
    明治5年から明治18年まで    
    明治19年から同30年まで    
      学生生活を懐古して  別名町  森 きり
    明治32年から大正5年まで    
      あの時代ありせば    森 宗七
      恩師を思う  八田町  後藤 弥太郎
      ≪無題≫  羽津北町  梅本 きぬ
      開校90周年に寄せて    森 真現
      松の木とともに    柴田 とさ
      母校の土をふみて  鈴鹿市西条町  藤井 よね
    大正6年から昭和11年まで    
      思い出  羽津町  森 鈴
      瞼の底に  昭5尋常科、昭7高等科卒業生  むつみ会
      当時を懐古して    藤井 伊太郎
      思い出の数々       森 良治・森 ひな子、その他有志による
      一本の松の木が思う  八田町  田中 万吉
    二宮翁像の建立由来    
    昭和12年から同20年まで    
      母の国  昭和25年卒業  伊藤 弥
      強く生き抜いて  昭和20年3月卒、山手中同窓会長  森 国夫
    昭和20年8月より    
      新卒の想い出  旧職員  稲垣 秀一
      羽津の思い出  旧職員  小山 佐次郎
      日支事変より大東亜戦争へ  旧職員  田中 正次郎
      過渡期の教師として  旧職員  伊藤 きん
      陶芸教育の思い出  旧職員  岸本 義香
      東海理化研究発表会の思い出  旧職員  東 なみ江
      追憶    梅林 智
      思い出  旧職員  伊藤 薫
      思い出すこと  旧職員  太田 裕久
      しいの実  旧職員  津坂 治男
      昭和39年の歩み    水谷 勉
      走馬燈  現職員  横山 侃
      90周年に思う  現職員  国枝 秀子
      あれこれ  現職員  松井 茂
   児童生徒作品    
    おみまい    1年
    うみ    
    8月18日    
    わたくしたちの学校    2年
      同上    2年
      同上    3年
      同上    4年
      同上    5年生
    90周年    6年
    思い出の鼓笛隊  山手中1年  川村 康子
    小学校の思い出  山手中2年  小泉 摩利子
      同上  山手中3年  神田 順子
   現職員名簿    ≪割愛します≫  
   昭和39年度 自治会長    ≪割愛します≫  
   昭和39年度 PTA役員    ≪割愛します≫  
   昭和39年度 PTA地区委員    ≪割愛します≫  
   昭和39年度 PTA学級委員    ≪割愛します≫  
   旧職員名簿    ≪割愛します≫  
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巻頭言・祝辞

発刊の言葉                  学校長 伊藤 寛一

 本年は、当校創立九十周年に当りますので、記念事業の一つとして、校誌が発刊されることになりました。
 明治七年、現光明寺境内の一か所に、校舎が建てられ、その後、幾多の輝かしい伝統と、努力によって、今日の羽津小学校ができました。校地校舎も移り変わり、その間、懐しい思い出やら、苦しいことやら、いろいろな出来事がありました。そして、今日の躍進する姿となったのであります。当地区は住宅地として、ますます発展し、児童も急激に増加してまいりました。
 こういった姿の中での校誌の出版は、いっそう成長の記録を意義づけるものであると共に、今年は東京オリンピック開催の年でもあり、さらに記念すべきものになると確信します。
 地区のかたがた、卒業生の皆様にこの記録を読んでいただき、当時の様子を思い浮かべ、お仕事への情熱を倍加され、一段と愛校の気持ちを、もっていただければと考えます。
 校誌編集に当りまして、編集委員のかたがたの昼夜をわかたぬ、お骨折りをいただき、県下はもちろん県外からも、貴重な資料をご提供願い、また地区内外のかたがたには、格別のご厚志、ご援助を賜わり厚く御礼申し上げます。そして、今後ますます当校が発展することを念願する次第であります。

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「校誌」によせて              教育長 山本 軍一

 羽津小学校で、九十周年記念事業として校誌を発行されるにあたり、私の所感を述べさせてもらいます。
 日本の一地方区でのできごとまたは歴史が大きく日本全体の動きの中で進展してゆく事実をはっきりとみることのできるのは、何といっても明治時代以降のことであろうと思います。
 羽津小学校の沿革を一覧しても、ここには明治以降の日本教育の流れ、それが制度の上で、また内容の面でその断面を私たちにみせてくれています。
 明治新政府が世界の先進国についてゆく為に打ち出した、いろいろの施策の中で教育は比較的大きな構想をもって進められ義務教育が常にその中心になって改革されてきています。住民もまたこれにこたえて子弟の学校に学ぶことについて一種の誇りと希望を託し、村に不学の戸なく、家に不学の人なからんことを念じた私たち先輩の願いが現在は既に実現をみています。  文字通り寺小屋の学校がながい間の村の方がたの努力で国の義務教育充実の方針にそって校舎の建設や、施設の整備がなされてきました。
 そのことは、沿革誌に記録されています。校名変更、更に現在の住民の万に、まだ記憶に新しいことは敗戦に伴っての学制改革による学区、学校の変更は一面非常な無理をみつつ実施されただけに、トラブルや、財政面の負担や、準備不足等を包んだうえで現在に至っています。従ってこれらを遠因として起っている現在の問題は、今地区の方がたに迷惑を及ぼし、また解決をせまられています。
 こうみてきますと、事は一朝にしてできたのではなくよきにつけ、あしきについて私たち先輩の努力のあとにつながっています。羽津小学校が誕生九十年を迎えて、これを一つの区ぎりとして今の若い世代が飛躍的に発展する素地を培わんことを祈ってやみません。

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祝辞                   衆議院議員 山手 満男

 羽津小学校の校誌が、創立九十周年の記念としてPTAの役員の方々の御尽力に依って刊行せられるということを拝承いたしまして、まことに時機に適応した結構な企であると存じます。ここに恭しく敬意をお捧げ申し上げます。
 私は時々、羽津小学校へ参りますが、いつもよく清掃美化が行き届いている事に感心いたしております。
 子弟一如と申します言葉のように、校長先生を中心として先生と児童が一体となって、学校経営ができていて明るい朗らかな学校であると思っています。
 また、よく整頓せられた施設や備品を見て、それらの多くがPTAの方々の理解ある協力の賜物であるということを思いまして、限りない感銘を強めるのであります。
 この良い学校、歴史に輝く学校に学ぶ児童の皆さんは、本当に幸福であると思います。どうか身体の健康と豊かな教養を積んで、立派な日本人になる其礎を築いてください。
 簡単でありますが、以上を述べて祝辞といたします。

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御祝辞に代えて              市会議員 坪井 妙子

 明治七年五月十日創立にかかる羽津小学校が、九十周年の記念すべき年を迎え、歴史的な記念事業として校誌を編集されるに当り、一言御祝いを申し述べます機会を得ました事の光栄に感激しております。
 思えば九十年の歳月は幾多の人材を生み、育て、巣立たせて行った光輝ある羽津小学校の歴史であるのみならず、学校を通して教育、文化、社会、産業等、羽津の地域社会の発展の歴史であり、国の歴史に他ならないと思います。
 日清、日露の戦争を耐え抜く時、或いは最近の大東亜戦争の痛恨から立ち上がる時、或いは先年の伊勢湾台風の如き天災地変の時に、如何に多くの親たちが現在の苦難の上に戦いつつも子供たちの将来により大きな幸福を期待し、願う思いを、学校への善意として寄せられて来た事か。
 風光環境の、素晴らしい校地を選定し、広く松を植え、或いは通学路に桜、もみじを配した歴史の中の父兄の心を、尊い教訓をいただく思いがいたします。耳をすますと、それらの多くの父母の願いやら祈りが聞こえて来るような思いさえして、現代を担う私共の努力が過去の父母に対しても、また将来羽津学校を担って行かれる父母に、また子供に対して、果して誤りなく万全の努力を以て悔なき奉仕が出来たかと、自問自答してみる時、力不足して、お恥ずかしい思いもいたします。
 けれど、羽津小学校の百周年を迎える日には、格段の飛躍した姿を以てお祝い出来る事を信じ、今日では古人の手の跡、鍬の跡の偲ばれるような学校の姿に一種の郷愁と教訓を覚えながら、一日も早く現代建築の学校に脱皮出来るように祈り、努力を重ねて行く事をお誓い申し上げ、羽津小学校のいやさかえを祈念して、ご祝辞に代えさせていただきたいと存じます。
 終りに、此の企画のために日夜ご努力いたされるPTA諸賢のご苦労に対し、心からの敬意と感謝を捧げさせていただきたいと存じます。

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祝辞                羽津自治会連合会長 伊東 直作

 羽津小学校創立九十周年校誌の刊行について、PTA会長大野氏が自治会に出席して説明せられました。私ども一同は、この拳に対し双手を挙げて賛成すると共に、PTA役員の労苦に深甚の敬意を表し、立派に完成せられることを祈念いたしたのであります。
 近時医薬の進歩と環境の整備によって、平均寿命が、著しく延長し現存せられる高令者の中には、創設当初のことが思い出されて、一入懐しさを深められることと思います。自来数多くの同窓のかたがたは、学校の位置や校舎の移転、増改築はあっても「羽津小学校という生命」は永遠であります。事あるごとに学校時代を思い浮かべて愛校の念を深められることと存じます。
 実は、私は昭和二十年六月十八日の四日市空襲の羅災看で、住宅は焼失いたし、一時は菰野の友人宅に仮寓いたしましたがその年十二月当地に居住する光栄をえまして以来、約二十年地区のかたがたの交誼と親善をいただいて感謝しておるのであります。
 その頃の教育は戦後の新体制である六・三制が実施せられ、学校の再配置が行われた時で、羽津小学校の校舎の一部が山手中学校に移築せられた際には、再三奉仕したことを覚えております。
 近年羽津小学校の校庭において、毎年地区を挙げてのリクリエーション秋季大運動会を自治会、婦人会、青年団が一体となり、学校側の協力によって施行いたしております。集まる老、幼、男、女、中学、小学、保育園も参加し、一丸となって楽しい一日を過ごすことにしております。これも何時までも母校を忘れぬ行事であると喜んでおります。地区の発展に伴って、羽津小学校も鉄筋高層に新築せられる日もあまり遠くはないと思います。
 伝統と歴史に輝く羽津小学校に学ばれる児童の皆さん、かつてこの学校に学んで社会に立って活動している先輩が残された「羽津魂」を、たましいとして立派な日本人になるよう勉学してくださることを念願いたします。

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九十周年に望む               PTA会長 大野 登

 今からちょうど九十年前の明治七年五月、羽津町光明寺境内に羽津小学校の前身である寺子屋が創立されました。その後学校の位麿も羽津町梅本茂一先生宅から現在地に移動し、校名も羽津学校から額田学校、羽津尋常高等小学校、羽津国民学校、羽津小学校と呼ばれ、現在に至るまで、世の中の移りかわりと同じように日進月歩の発展を遂げてここに九十年の輝かしい年を迎えたのであります。この記念すべき年に当り、学校側始めPTA役員の皆様にて数々の記念祝賀行事の一つとして校誌を発行することを計画してくださいましたが、なかなか大変な事業でありまして、ご執筆くださいました方、資料を提供してくださいました方々、編集を担当してくださいました方々ご協賛下さいました方々、各方面の皆様方の一方ならぬお力添えによりましてここに発刊の運びとなりましたことを厚くお礼申し上げます。
 一口に九十年と申しましても過ぎ去って見れば短いようにも感じられますが、小学校開校当時の方は、すでに人生を全うされた方々が多く、私共昭和十一年に卒業した者でもすでに年令的には人生の半ばを過ぎてしまいました。小学校時代の同級生や思い出程いくつになってもなつかしく感慨深いものはありません。
 ただ何となく九十年を過したと言うことでは何の意味もなく、みみずや虫けらでも続いているかも分りません。だんだんと改善され、進化して行く事に人間の偉大さがあるのだと思います。
 創立当時より現代に至るまで、先輩の方々が築いて来られた立派な羽津小学校の歴史にさらに一段と光をそえていただくのが今後卒業される諸君のつとめではないかと思います。またこのことが、これから五十年、あるいは百年先の後輩に対する、羽津小学校の誇りであり、心の土産になるものと確信致します。
 それから私共は日頃からたくさんの方々のご恩や、いろいろの恩恵、即ち国の恩、空気、太陽、水等大自然の恩恵、生まれてより今日までの父母の恩、先生の恩その他数々の社会大衆の恩によって生活しているのであって、このご恩に報じる事即ち社会の為に役立つ立派な人間になることが大切なことは申すまでもありません。
 何分学生時代は大いに勉学に運動に努力することです。努力した人、そうでない人では何十年か先になって必ず結果が表われてくるものです。後になって「しまった。あの時もっと勉強しておけばよかった。」と思っても取りかえしがつきません。私たちもこのことはよく経験しております。
 今の子供は私共の時代より学問も進み、頭のよい人ばかりですから、どうかこの九十年の輝かしい年を迎えた機会に、お互いのため、母校の為、大いに努力して頂きたいものです。

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発刊によせて               PTA副会長 森 安吉

 輝かしい歴史をもつ羽津小学校が生まれて九十年。このたび校誌が出版されますことはオリンピック開催の年であるだけに一層意義深いものであると、心からお喜び申しあげます。
 先般、梅本茂一先生の屋敷になっています旧校舎、旧運動場を拝見しながら、当時の模様をお伺いして昔にかえった気持ちでした。こういった資料は勿論、明治・大正・昭和それぞれの時代に学ばれた卒業生の方々、教鞭をとられた先生方の記事・児童の作文・写真版をのせて当時を浮き彫りにし、よい思い出にしていただくように編集されました。
 この機会に同級の方々がお集まり願い、当時を回想して楽しかったこと、苦しかったこと等語り合い、明日へのお仕事の意欲をもっていただき、後輩に対し有効適切な御助言をいただきますならば、発刊の目的を達せられたといえましよう。
 なお校誌発刊にあたりまして、地区内は勿論、地区外の方々からも多大の御援助、御協力を賜わりましたことを、紙面をかりて厚くお礼申しあげますと共に光輝ある学び舎が、いよいよ繁栄されますことを祈念いたします。

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校誌編集に寄せて             PTA副会長 平野 和子

 明治の曙光と共に始まった羽津小学校の歴史を繙きますと、長い期間に亘り本校の発展のため努力された数多くの諸先生、或いは沢山な同窓生、また関係者のかたがたの深いご理解とご協力の跡がひしひしと感じられ、心から感謝の念に堪えません。そしてこの創立九十周年の良き年に居合わせた幸を、心からの喜びと思っています。
 私共も二人の子供が入学いたしまして、九年の歳月がまたたく間に流れました。その間PTAとして、いろいろ数限りない思い出がございました。
 来年は学校ともお別れと思うと、何だか胸に迫るものがあります。
 どんなに最高学府に学んだ人でも、心の奥深く残るものは、小学校時代の思い出だと聞いています。このように多くの同窓生の心の故郷として、また子供たちの心身を大きく、正しく育む庭として、羽津小学校のいっそうの発展と明るい前途を祝福する気持で一杯でございます。

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校誌発刊によせて              文化部長 山本 鉄男

 誰しも子供の頃の思い出は、数多くありますが、とりわけ小学校時代のそれは本当に懐しいものであります。
 幸いにして私は、羽津小学校に昭和の初期に在学し、現在この学校の近くに住んでいる関係上、いつも元気に通学している児童生徒の姿を見るにつけ、今昔の感を深くする次第であります。
 小学校時代の思い出といえば、修学旅行、学芸会、運動会等、楽しかった行事の数々が今は懐しく目前に浮んできますが、特に印象に残っているのは、毎年十月に開催された運動会の風景で、当時は今の様な立派な放送装置もなく、志気を鼓舞するため僅かな楽器によるブラスバンドが編成されました。私はその一員に選ばれて、国旗掲揚の「君が代」や、全校踊りの「日本刀」等と、得意満面に演奏したものであります。
 また萩先生の指導による農業実習で、収獲した野菜を、四日市の旧市内へ振り売りに行った事も、ほほえましい語り草となっています。
 本年度は丁度、羽津小学校が創立されてから早くも九十周年の意義ある年を迎えたのでありますが、その記念行事の一つとして、校誌の発刊が、PTA役員会において企画されました。
 不肖浅学非才の身を顧りみず、文化部長の重責を拝して、校誌編集の任に当ることになりましたが、校長先生始め現職員、PTA役員諸氏、並びに地区内先輩名士各位の暖いご協力により、茲に校誌の発刊を見ました事は、誠にご同慶にたえない次第であります。
 申し上げるまでもなく校誌は、学校が歩んできた歴史の記録であり、この機会に、あらためて過去を振り返って先人の遺業をしのび、明日への夢を育てることは、決して無駄ではないと思います。
 終わりに臨み、校誌の編集に当りましては、貴重なる資料や、激励の言葉を受け、また羽津地区内外の方々より寄せられたご厚志に対しまして、深甚なる謝意を表すると共に、輝く九十周年の歴史を迎えたこの学び舎が、益々発展されん事を、心より念願する次第であります。

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汲めども尽きぬ思い出を           PTA役員 森 沢男

 母校創立九十周年にあたり、私、はからずもPTA役員の一員として、意義ある校誌刊行に際し、つたない思い出が一助になればと思い寄稿する次第です。
 私は海あり、山あり、平野ありの羽津村で生まれ育ったのです。当時の現小学校環境は、羽津の町より山手にあり、そのあたりは人家もまばらに建っている程度でした。今にして思えば立派な町に繁栄したことと心から喜んでいます。
 私は十八歳で神戸へ行っておりましたので一年に一度帰郷するのが楽しみでした。それは在学時代、農業指導の坂先生と農業の時間に、校門前に鉛筆より細い桜と紅葉の苗木を交互に植樹した生長ぶりが見たかったからです。先生は「君たちの子供が入学する頃は、桜の花が立派に咲くだろう。」とおっしゃられました。小学校を訪れるたびに当時が思い出されて懐しく思われます。
 学校も其の後、増改築されてかつての校舎跡はわからないが、講堂は昔ながらの名残りをとどめ四年生頃に建てられたそのままの姿であります。当時としては三重郡八校の中でも自慢の一つでしたが、今ではおじいさんになったもんだと思います。
 私たちのクラスは入学から卒業までの六か年・八か年間男女共学で同じ教育でした。その間の楽しかったこと・悲しかったことが頭に浮かぶ。例えば稲垣先生と多度神社までの遠足―「ゴンボジョリ」をひきずり、日の丸弁当をたすきがけにして山道を歩いた。小雪がちらつくし、足はビッコになる。楽しかったなあ。―そういった数限りない思い出を蔵している母校あればこそと耽想するのも私一人ではあるまい。
 現在四人の子を持ち、末子がすでに六年生になりましたが、親子二代お世話になった母校。永遠に夢を育ててくれるようにと祈ると共に、立派な校舎を一日も早く建てていただき、よき人を造り社会の為にいつまでも励ましてくれるようにと念じている次第です。

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お祝いの言葉               PTA役員 服部 律生

 羽津小学校創立九十周年を迎えるにあたって、一言お祝いを申しあげます。先ずはおめでとう御座居ます。
 輝く九十周年を記念して、校誌を発刊されます事は、まことに意義深い事と喜び感激しているものであります。いたずらに小学校のみならず、羽津地区全体の誇りといたさねばなません。
 私は羽津の地に来てから、丸十五年になりますが、二人の子供も兄は中学校へ妹は現在小学校にお世話になっております。
 あまり昔の事は知る由もありませんが、総合して察するに明治の初期学校の先祖ともいうべき、寺子屋教育から始まって以来実にここに九十年を迎え、長い歴史の中には数限りない尊い伝統が残されていると思います。
 浅学非才の私らには、とうてい口答紙面及ばないものがあると思います。われわれの小学時代を振り返ってみても‥‥‥授業中ともなれば竹の根ぶしを持ち、八字ひげを生やし目を釣りあげて机の横を往来し、あげくの果ては廊下のまん中で、半日も直立不動の姿勢等という先生は、現今では夢にも想像がつきません。現在の子供たちは全く幸福そのもののように育っております。
 年々と小学校教育課程方針が、ますます充実され、加えて父兄の教育に対する関心が急速に高まりつつあります今日、高い理想を正しい判断によって、あらゆる角度から、また立場から理解し、豊かに精進を願うは、どこの父兄にいたるも同じであると信じています。
 学校生活また家庭生活においても何ごとにつけても豊かな活気ある中に、本年ここに記念すべき九十周年を迎えました事は、感激のほかありません。PTAの一役員としまして校誌編集に関し、格別の御尽力と涙溢るる誠意を賜わりました地区の皆々様は勿論の事、校長先生はじめ先生方、またPTA委員役員の方々に対し、心底より幾重にもお礼申しあげ、この輝かしき誇り高き九十年の大記念を学校関係のみに止どまらず、老若男女を問わず羽津全区民双手を挙げて、万才を唱え大いに祝おうではありませんか。そして二十年先、三十年先、いや幾十星霜の前途まで母校の幸多かれと祈りつつ。  最後に重ねて羽津小学校九十周年おめでとうと申しあげて、私のお祝いの言葉にさせていただきます。

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思い出                     十九代校長 金森 重雄

 創立九十周年をお迎えになった、羽津小学校に縁りのある皆様お目出とうございます。
 思いうかべますと、去る昭和二年教員生活の第一声を放った、元気旺盛な青年教師として希望をいだいて、面白く愉快に生徒と共に何度となく裏山の垂坂山に走ったり、生徒の作品になる画架を前に無意識に筆をはしらせ共に喜んだ日のことが眼前に浮かんで来ます。
 それにしても将来有望視された奥山繋青年将校をはじめとして、幾多有為の青年を国の為とはいうものの尊い犠牲にされたことは恨みても残念でたまりません。今も尚私のアルバムの中には生々として微笑をうかべて勉強に余念のない姿をのこしています。それを見るたびに在りし日が思い出され感慨無量であります。
 終戦後再度御校にお邪魔に上り校長としての第一歩をふみ出しました。そして前後二度の勤めで親子二代をお世話させていただくとは本当に不思議な緑と思っています。
 今は只、志?の新校舎で戦前にもまして、生気溌剌と未来に伸びる子等が、毎日毎日精一ぱい勉強にいそしんでいることと存じます。
 伊藤校長先生より「何か思い出を」とのことでありましたが、遠い昔のことでもありますので、思い出にかえて思いのままをお送りしました。

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私の思い出                 二十一代学校長 粕谷 真一

 この度、羽津小学校が創立九十周年の記念事業として、校誌の発行をされるに当り、拙い私の原稿をのせていただきます事はまことに光栄の至りと存じます。
 私は昭和二十八年四月より四か年間、校長として羽津小学校に奉職した者ですが、経験の少い浅学の私ではありましたが、幸い地区の方々、PTAの会員各位の深いご理解と絶大なお力添えによりまして、大過なく勤めさせていただきました事を今なお感謝しています。在職中、印象に残っている事は何かと尋ねられますと、どれから申してよいやら、一寸戸惑いますが二つ三つ拾いあげてみたいと思います。
 その一つは、校歌の制定をしていただいた事です。当時のPTA会長の小川孝氏を中心にして、三重大学の若松先生作詞、東京芸大の伊藤先生作曲による立派なものです。
 梅本茂一先生にも、いろいろお世話になり、志?が野をはじめ羽津地区を、くまなく車で先生等と回り、作詞に十分その気持ちをもり込んでいただきました。この歌は児童からお家へ、地区へと浸透している事でしよう。私の在職中に残るものを制定していただき、こんな嬉しい事はありません。
 その二は、校旗の制定の事です。濃緑の地に、金色に浮んだ校章。垂坂山の松の緑が永遠に変わらないで、生々発育すると同じように羽津小学校が、いつまでも生々発展して行く事を象徴したのが、この校旗です。
 当時のPTA会長大森宗冶氏をはじめ、地区の自治会の方々には、格別のお骨折りを賜わり、名古屋市まで調べに行った事、市内の数枚のものを見せてもらいに回った事も、今は懐しい思い出となっています。この二つは児童の脳裏に、いつまでも消え去らない。しかも子々孫々にまで語り伝えられる教育上、最も大切なものではないでしょうか。
 その三は、PTA会員各位は勿論、地区の方々が、大変羽津小学校を愛し、また一面いたらぬ私たちを大切にしてくださった事です。私は、これが教育の根本をなすものだと信じております。よく夏休み前になると、地区別懇談会を開きましたが、どの会場とも、とっても父兄方の出席率がよく、遠慮なく、いろんな意見の交換が出来て、そのふんいきが私は好きでした。私はこの会に出席する事を楽しみにしていました。また運動会の準備、運動場の地ならし、校庭の樹木のばっさい等、献身的に労力奉仕をしてくださった当時の皆様のお姿が目に浮びます。これらの学校愛、教育愛が、どれほど当時の教育実践の推進力になった事でしょう。
 その四は、当時小学校付設の青年学級の事です。当時青年諸氏は、とっても勉強熱が高く、教室も座席が足らないほど、出席者が多かったように記憶しています。この事は市内でも有名でした。皆、しっかりした男女青年でした。今は、当時の人々も一人前の立派な父兄になっていられる事でしよう。そして家庭では、よいパパやママ振りを発揮していられる事でしよう。
 最後に羽津小学校の隆昌を祈ります。

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追懐                      二十三代学校長 辻 博也

 私は、昭和三十二年四月から三十七年三月まで老松陰を落とす校庭に立ち、東に潮の香満つ水青き伊勢の海を眺め、西に松緑なす垂阪の山を仰いで、丁度五年の歳月を送りました。私の一生から考えれば、長かった五年とも言えますし、また考えようによっては短かった五年とも言えますが、この五年間に、種々のことがありました。とても枚挙にいとまがありませんのでとりわけ印象深いもの三つを挙げて記念文集の一頁にしたいと思います。
 「その一」は昭和三十三年新校舎の建ったことでした。この年児童数が八三〇名位だったと思いますが、羽津小学校有史以来の在校児童数となり、教室が足りなくなって管理棟と校舎(教室三)一棟が新築されましたが、丁度羽津が市発展の一翼を担ったことになり、四日巾市発展を盛り上げた最初の地域ともなったことでした。学校建築は当時、市では十ヶ年計画ができていて、羽津はその数に名を止めていなかっただけに市当局の英断もさることながら、市教育界を驚かせたことも否定できない事実でした。もちろん当時の地区出身議員さんがた、自治会皆様がたのお力であつたことは申すまでもありませんが、私にとっては嬉しい思い出の一つです。
 「その二」は天災で、あの恐ろしかった伊勢湾台風に製陶室が吹き飛んだことと、講堂の屋根が剥がれて天井が落ち、富田方面から塩浜方面から通っていた先生がたのお家が全壊したことでした。  製陶室は、管理棟(職員室)が建つ為に校庭の東南隅に移築し、大森さんのお力でやっと窯場がレール式にできて、初窯を焼いたとたんのことでしたので残念至極でした。それ以後再び製陶室を作り上げ得ないで今だに心残りがいたしてなりません。初窯の日の子供たちのよろこんだ顔が今もなお目に残っております。
 講堂はそれから一ヶ月、天井が垂れさがったままでしたが、大変だったのは天井の上に籾殻がたくさん載せてあったので(多分防音の為だったのでしょうか)それがあの暴風雨の雨にたたかれて四散し、講堂の床上に満ち溢れて乾かず、床板が反ってきたのに修繕の順がこないため、職員が床にところどころ穴をあけて水はけをよくしたことや、今はなき前会長山本邦夫氏が懸命の努力によって今見る講堂に生れ変ったことでした。もちろん伊勢湾台風は、学校だけでなく北勢地方一帯を襲った暴風雨でしたから、一般ご家庭の被害もなみ大抵ではなかったことですが、私の心の傷跡としては先生方の家屋の全壊、流出、床上浸水の被害と共に生々しい印象となって残りました。
 「その三」は私が羽津を去る日に送った挨拶状に書きました言葉。
 私は去らなければ なりません。
 淋しい限りです。
 五年の歳月が夢のように流れ
 最後に 平和な環境に嵐をよんで過ぎて行きます。
 この嵐、集団赤痢は長い教員生活の苦しい思い出、悲しい思い出、忌わしい思い出の最大のものです。三十七年の二月十四日、昼食に食べた編笠餅がこんな恐ろしい結果を生むとはとても考えられませんでした。十六日には欠席児童が全校八十名位になり電話で風邪熱で休む、腹痛で休むとの連絡のある頃は文字通り只事ではありませんでしたし、十八日に集団赤痢と断定された時は、長歎息、手の施しようのない自分の無気力を悲しまずにはいられませんでした。後の後悔で何と言っても詮ない事ながら申し訳ないやら悲しいやらで身のおきどころないまでになりましたが、天罰だと自分を叱り、暖かい皆様の同情でその日その日が過ぎて行きました。集団赤痢の記録は、その後梅本校医先生や保健所のお力で纏められて一冊の書物となっておりますので、重複を避けますが当時立派な給食室を作っていただき消毒機や洗滌機も地区皆様のお力でその前年に備えて頂きこれも今は亡き早川和一市議さんが「設備がよくなると機械を過信して失敗するから注意するよう。」とご指示を仰いだ直後だっただけに申し訳ないやら残念やらで全く心の傷手になりました。
 この機会に地区の皆々様にこの紙面をかりて深くお詑びいたします。

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校恩奉謝                    梅本 茂一

 羽津小学校が創立九十周年を迎えますので、PTAの発起によって、各種の祝賀行事が企画せられました。
 その中に九十年間の学校の歩みが「校誌」と称して刊行されますことは、実に芽出度い意義深いことと存じ満腔の感謝を捧げる次第であります。
 私も明治二十六年四月尋常小学校一年生に就学して、四か年の間服部先生や駒木根先生の薫陶をいただきました。次いで四日市市高等小学校を経て県立第二中学校に進み、同三十八年三月同校を卒業しましたが、宿望の軍人志望は近視のために断念しました。それで短期間でしたが京都法政大学予科に学び、新戸辺、河野先生方の教導を受けました。
 家業の関係で単身渡鮮し海外貿易の実務に従事すること二年有半、帰国直後、恩師駒木根先生が足痛のため欠勤中、村当局の勧奨によって、代教を拝命することになり初めて児童に接し、日々従事するに従って趣味が深まり、児童教育そのものが楽しいものであるという感激が高まり、時には上級児を友として千種発電所を見学、多度神社に参詣する中に校外指導の緊要を痛感することもあって、この教育こそ自分の天職であると固く決心いたしました。そこで遅れながら三重師範本科に学び、一年間懸命に勉学し、図書舘にある教育書をも読み尽して、いよいよ教育報国が自分の使命であると痛感いたしました。
 羽津小学校へ復職する志願でしたが、四日市市立男子高等小学校訓導を拝命することとなり、自来昭和十六年まで約三十年間児童教育のため微力を捧げさせていただくことになりました。
 現在余生を楽しく暮らし得て、世のため人のために尽させていただくことの出来得ることは、全くはじめて身を教育界に導いてくださった羽津学校の御恩を感謝する次第です。
 ここに改めて校恩を奉謝し、校誌の発刊を慶祝いたすと共に、校運の隆昌と教化の弥栄えを寿ぎ申します。

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我が母校の今昔                     矢守 貞吉

 我が母校は、約一世紀近くの久しきに亘り、当羽津地区の少年全員に対し四年乃至六年間、基礎教育を施し社会に送り出した其の功績は実に偉大であり、如何なる感謝賞賛の辞をもってしても言い表わし得ぬ所である。
 日本が今日、幾百と数ある国家群の中に在って、断然頭角をあらわし殊に近隣アジアの中に在って、盟主と仰がれている現状は、実に国民の素質が優秀であり、文化工芸あらゆる面において、他の先進国に伍し決して劣らぬ能力を保持している結果であり、この国民の知識が斯々向上したことは、義務教育のお蔭である。九十年の長年月、黙々として培われた教育の効果が今日麗しい花を咲かせていると言うても決して過言でない。今日この九十年の歩みの跡を省みることは、誠に意義深く、約七十年の歴史を知っている一老人として、其の今昔を比較回顧するに、著しく進歩向上せることは、一驚を喫する次第である。七十年も前には、同学年の者男女合わせて三、四十名従って全校生徒百五十名を生ずることなく、先生も校長先生を含めて僅かに四名、小便さん一名と言う少人数、また教わることも社会人となり直接生活に必要なる読み、書き、算数の実用的なものだけ。
 当時羽津尋常小学校の上に四年制の高等小学校が、四日市にあったが、そこへ進学する者は僅か数名に過ぎず、大部分の者は羽津学校四年で学業を終えたのであった。
 其の頃の社会も極めて簡単であり、農耕にしても機械は無論のこと牛馬耕さえ稀であり重い鍬を振り上げ人力ばかりで耕作し、また工業においても繭から絹糸を、綿花から綿糸をつむぐ紡績工場位のもので、一般社会人として生きていく為には、四年問の修業で十分であった。
 然るに近時は第一産業の農業においても、耕作は機械力、肥料、除草、消毒等、全部化学製品に依存、重化学工業に従事する者は勿論のこと、家庭にあっても電気器具等を多く使用し機械、電気、化学等の其礎知識を必要とする時代となり、小中学校九ヶ年の義務教育を終え、更に上級学校に進学する者多く、また其の教育内容においても極めて複雑化し、ただ単に物事を教えると言うばかりでなく、創意工夫を凝らし物を創造する力を付与し、また観察力も物の内面まで見透せる眼識を涵養し世界何れの国々にも負けない優秀なる国民を養成することに力が注がれている。
 斯くの如くにして我が母校は時代の進展に適応しつつ九十年の長い歳月、郷土の青少年を教化育成せし功績は実に偉大であり、心から尊敬の意を表する次第である。

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校史編集に寄せて                  校医 梅本 金五

 羽津小学校創立九十周年を記念して、校史の編集が行われるときき、意義深いこの行事に敬意を表します。
 先日校長先生から、何か書くようにと命令をうけましたけれど、牛来禿筆の私には文章作りなど最も苦手ですが、三十年の昔この学校を卒業したので、学校に連なる思い出などを筆にしてその責を果したいと考えます。
 私は昭和三年の春、羽津尋常高等小学校に入学し、六年間お世話になりました。当時の羽津小学校は、小さな田舎の小学校で学校の規模も今日の半分位でなかったかと思います。丁度今の運動場の部分にこぢんまりした姿で学校が建てられていました。星移り時流れて羽津地区が生々発展すると共に、今日の立派な学校に成長していったのは誠に慶賀のいたりであります。
 台地にある校庭からは、東はるかに黄色い菜の花の田圃を越えて伊勢の海が青々と広がるのが見え、また西には御在所山や誓子が詠んだ大三角を擁する鎌をふくめて鈴鹿の山々が遠く眺められたし、朝な夕なに通った学校道の両側には桜、楓の新樹が交互に植えられて四季折々の変化をみせていたのは忘れられない景色でした。
 昭和三年と言えば先帝の喪が明けて、全国津々浦々までご大典の祝いで賑わった時で、私共も落成間もなく、立派に新装なった大講堂で、その祝典行事に参加したのを覚えています。
 早起き会と称する行事があって、毎月一日に児童は早起きして各地区の神社や寺院の境内または通学道路の清掃を行つたのもなつかしい思い出です。夏はとにかく、冬の朝この行事に参加するのは子供なりに克己心養成に役立ったと思っています。
 学習については、平凡な私の事とて先生方に種々お骨折りをかけながら特に深い印象もありません。しかし、朝に夕に、共に学び共に遊んだ友の中から、多くの人々が過ぐる太平洋戦争に尊い命を国の為捧げられた事は、時代のなせる業とは言い乍ら痛恨のきわみであり、それらの誰彼の顔を思い出すと言い知れぬ悲しみが湧いてきます。今はただただその冥福を祈るのみであります。
 その後、大阪に出て医学を学び、羽津地区にささやかな医院を開業したので、今度は校医として学校と関係を持つことになって今日にいたりました。
 私にとって愛すべき後輩諸君の為、微力ながら学校保健を通して、みんな元気に成長してくれるよう努めたいと常々心掛けています。
 全国的な傾向とは言われますが、此の頃の児童諸君の身体的発育は誠にめざましく、高学年の児童中には、私が見上げる程の者が幾人かあり、この点からは私共が羽津小学校在学の当時に較べて、まさに隔世の感があります。
 校医生活十数年の間に忘れられないのは集団赤痢の発生です。突如として平和な学園に吹き荒れた伝染病の猛威は、地区全般にもその類を及ぼし、一瞬にして羽津の土地が恐怖の巷と化した事は、伝染病のおそろしさをまざまざと知らされて、今もなお身振いする程です。保健関係の仕事に従いながら、うかつにもこの惨事を招来したのは学医として申訳けなく思っています。
 今後はかかる事件のないよう、くれぐれも注意すべきと自らをいましめています。
 あれこれと思いつくままを綴って拙文を終ります。

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六十年の影                 二・三代目PTA会長 藤井 由三

 羽津小学校創立九十周年記念に当り、私の幼い頃の思い出を託すと共に、今日までの初等教育育成の根本的成果を偉大なものと信じ、今日に達した事を心より感謝し喜んでおります。
 当初、私の入学は明治三十九年四月、現在の羽津町において、寺小屋風の教育を受けました。当時同級生も僅か三十数名ほどであったのです。同年五月十日、現在の位置にもって羽津小学校が設立されたのであります,我々初級生も、上級生も、第一回の転校入学を行い本格的な初等教育を受けたのであります。
 当時は四年制教育であり、私も四年問の教育を受け、卒業と同時に六年制が執行され、第一期の六年制教育の入学生になったのであります。
 その後、二か年経過して卒業すると共に、高等二年制教育が再び執行されたのであります。
 かくして私は、現小学校にて八か年間の教育を受け、卒業して早や五十年の年月がたち、昨今におきましては、すばらしい学校設備と洗練された教育、年と共に発展してまいりました。その間、私の子孫に至るまで、全部羽津小学校に入学し、卒業を得られたことは、ひとえに市教育関係者を初め、皆さまPTAのおかげであると、私は、感謝にたえません。
 小学校の位置も、羽津の中心地にあり、東は水の美しい伊勢湾を望み、西は小高い垂坂山、夏になれば海水浴、秋になれば遠足、今日においては、年中行事の一つでもありましよう。このように環境的には最高に恵まれているといえるでしょう。
 我々の小学校教育というものは、充実した教育方針により、手きびしい教訓を受けてまいりました。 当時の先生の権限は、非常に大きいものであり、道徳的にも精神的にも打ち勝ったものが得られたと思います。それがゆえに、現在至っても先生の影が、ほのかに感ぜられ、感謝するにたえません。 羽津小学校も、九十年の年月が流れ、今日において割り切れない立派な成果があると思います。過去の経験を生かし、将来幾百年の末永く、永遠に、羽津小学校の名声をより高く、評価して、より美しく育ててくださる事を祈り、私のことばを終ります。

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偶感                  四・六・七・代目PTA会長 小川 馨

羽津小学校の創立九十周年の記念事業の中に、校誌を発刊いたされるにあたり一言祝詞を申し上げますと共に、私の遠い昔の思い出等申し述べる機会を得、喜ばしく存じます。 私は大正八年に羽津尋常高等小学校高等科を卒業いたしました。其の当時の校舎の面影などは全く在りませんが、変わらぬものは羽津の皆様方の学校に対する愛情並びに理解と校門の前の坂道に植えてある桜並木であります。あの桜の花の頃が丁度新学期の始めと同じ時期でありまして、其の下を毎日心をはずませて通学したものです。また教わるままに未だ知らぬ東京の武蔵野を連想して、志?が野日記と題して、志?が崎片葉の葦(今の、みはと学園付近の川端に多く密生しておりました)等を取り入れて、綴り方を書いた事など校門の坂道を通るたびに遠い昔の事ども思い出し、懐かしさを新たにいたします。
 さてお互いに卒業してしまいますと、それぞれの行くべき道も異なり、懐かしかった母校へも出向く機会も少くなり、いつか忘れがちになっていましたが、図らずも昭和二十五年度にPTAの総会の選挙にて不肖私が、会長の大役を御引き受けいたす事と相成り、もとより浅学非才のものにて御辞退いたすべき所、折角の皆様方の御意志を尊重して、-意専心PTA活動に努力いたしました。
 私の末の子供の在学中、丁度六ケ年の長き間会長または副会長として、その任務を大過なく務めさせてもらいました事は、当時のPTA会員の方々のなみなみならぬ御支援、御鞭撻の賜物と存じ、私といたしましては終生忘れる事の出来ない喜びと存じています。
 幸いにして、このたび本誌発行に際して紙上を拝借いたし、謹しんで御礼を申し上げます。なお末筆ながら伝統古き名門羽津小学校のますます御発展と児童諸君並びに諸先生の御多事を御祈りして愚筆を止めます。

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所感                五・九・十・十四代PTA会長 大森 光栖
                                 (旧名 宗治)

 羽津小学校創設九十周年にあたり、校誌を刊行せられることが、PTA役員各位の企画で実現することになりお喜び申しあげます。
 私は、いたって浅学微力な者でありますがPTAの皆さんの御支援によりまして数回その代表をさせていただきました。在任中の思い出は沢山ありますが、放送機の設置・校旗の制定と給食室改造の三つが頭の中に深く印象づけられております。
 戦後視聴覚教育が強まりましたので、学校放送機を新設しようという声が大きくなりました。PTAや有志の力添えにより購入し取り付けることになり各種の教育行事に活動したことであります。
 校歌はすでに作成されて児童に歌われていましたので戦後校旗をという声もありました。が、そのままになっていましたのを、校長先生始め諸先生方PTAの方々のお骨折りで、数回会合を開き学校の伝統ある校章を織り込み地質や色合などについて衆知をまとめ現在の校旗が制定されました。
 学校給食は、教育計画の一環として実施されたもので、特に児童の合理的な生活学習を実行する場とすると共に家庭および地域社会における食生活の改善に資する目的であります。当校ではこの趣旨に添うように昭和二十五年九月第二校舎の中に給食室を特設し、其の後、消毒機をはじめ一応整備いたしましたが不備な点も多く先進地学校の視察を致しましたところ、大改善の必要を感じ、まず洗滌機の購入にふみきり地区、PTAを始め富士電機・昭和石油・其の他地区各会社、商店の理解ある御協力をいただき洗滌機の設置をみ、水道の水量不足の為に井戸水を使用していたので富士電機より深井戸用のポンプを寄贈していただき、直ちに教育的な完全給食の励行に努めることになりました。お蔭げを以て児童の偏食も是正せられ体力の増強にも役立ち、みんなで楽しい給食をして明るい社会性を身につけつつあることを喜んでおります。  最後に羽津小学校の繁栄と全校児童の多幸を祈念して所感といたします。

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所感            八代目PTA会長・現羽津農協組合長 味香 太郎

羽津小学校創立以来九十年になるとは!!それはそうでしょう。数えてみれば私が小学校に入学したのは五十三年前である。
その間既に半世紀が過ぎているのであった。未だこの間のような気がしているのに早いものだ。
小学校在学中の出来ごとを思い起せばいろいろのことがあった。しかし今となっては、すべて夢に過ぎない。ただ今だに心の底に残っていることは、「独立自尊、権力に屈せず金権におもねらず。」というような標語が教室の高い壁にくっきり張りつけてあったことが強い印象となっている。この標語が私の一生を支配して来たことは大きい。人生において小学校時代に頭に焼きついたことは一生を通じて、大きく影響するのではなかろうか? 私の小さい経験から小学校時代の教育が如何に大切であるかを考えさせられる。
当時はPTAと言うような組織はなかった。村の村会議員さんや学務委員さんが小学校教育の援助機関であった。村のボスに握られた教育と、今の民主的なPTAとは雲泥の相違である。
しかし昔も今も子供は存外正直である。真理は真理としていつもあの澄んだ眼で見つめている。我々大人たちは、その眼にほんとうの物を見せる責任がある。それが次の時代を担う愛すべき少年少女に対する真の教育ではないだろうか?
幸いに当地区の先生方も親たちも小学校教育に真剣に取り組んでいただいていることを感謝して記念事業の達成が意義あるものでありますように祈って筆を置く。

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校史によせて               十一代・十二代PTA会長 加藤 彰良

 伝統ある羽津小学校ここに九十周年の歴史を迎え誠におめでとうございます。
 私は岐阜県の山奥より一サラリーマンとして、二十年前の昭和十九年四月大東亜戦争の末期に大四日市市のこの羽津の土地に住居させていただき由緒ある羽津に二十年、私の第二の故郷になろうとは夢にも思いませんでした。この間私は多くの人に接しさせていただき、いろいろと勉強をさせていただく機会を得ました事は、私のもっとも喜びといたす所でこれ一重に羽津の皆様がたのよきご指導によるものと深く感謝いたしこの紙面をおかりし皆様に厚くお礼申し上げます。
 この小学校において二人の子供が十二年間もお世話になりその間PTAの役員として長くお世話させていただく間にいろいろな問題、たとえば、勤務評定で五、六人の先生が自宅までこられ、一日中話し合いさせられた事、校地、校舎の事でお世話になった染川教育長の突然の死、或るいは、校地問題で冬、身を切られる程の寒い夜、辻校長先生と地主の家庭訪問した事、また校舎増築を市制六十周年記念事業と兼ね、当時は土地の人の顔もはっきり知らぬままに会長の席をけがしました事が、ただ今では、ほんとうに懐しい思い出となりました。
 人間形成の基礎を追っていただく、この羽津小学校四日市市に数ある間、どの学校より土地環境といい、もっとも学校らしい学校として、一番すぐれている由緒あるこの学びやより、すぐれた人も数多く出られたと聞き及びます。私は、二人の子供が学ばせていただいた事をほこりに思います。どうかこの校史がもっともっと長く続き善良なる社会人を一人でも多く育成される事を心より念願いたしまして筆をとどめます。

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台風の思い出               十三代PTA会長 森 良

 私はその日、私が経験した何時もの台風位にしか考えていなかったのです。
 勿論台風情報は刻々速報されてもいたし、風や雨の激しさも、いつもの通りだったので、あの台風も日本の何処かを通り抜けていくだろう位に考えていたものでした。
 ところが、あの日、あの月、あの年の台風は、夜に入っていよいよ激しさを増し、「これは只事ではないぞ。」と思ったことでしたが、明くる昭和三十四年九月二十五日、それが三重県人にとって、いや北勢の私たちにとっては、忘れ得ぬ伊勢湾台風の恐ろしい爪跡となったのでした。
 この年、私はPTA会長を柄になくお引き受けしていただけに、会長の思い出と言われてみると、真っ先にこの事が記憶によみがえってくるのです。
 しかも自治会長も引き受けていましたので、八田町のことも気になりながら、いち早く学校に駈け付けて見ました。この朝は、台風一過で素晴らしい秋晴れの天気でしたが、眼に入る校舎の面影は、いささか無惨なものでした。校舎の前にあった松 の木・槙の木が、根こそぎやられ、屋根瓦が四散し、講堂の屋根がなくなり、天井が落ち、製陶室が押し漬されていたものです。
 それから幾日、各家庭の整理もまだ充分でないのにPTAの皆様に奉仕を願って、この後片づけに踏みきっていただきましたが、被害が大きく範囲が広いだけに、種々迷惑をかけて大変すまなかったと、今もなお申し訳なく感謝している次第です。
 幸いにして災害救助の適用で思いの外早く講堂の修繕に着手され、皆様の献身的な努力もあって、立派な講堂として生れ変わりました。
 これを機会に、新しい緞帳を着けることを思い立ち、富士電に内交渉したところ、幸い脈がありそうなので、校長さんとお願いに参上、極力ご無理を願った結果、快くお引き受けいただき、周囲の飾り、金具等不足分を自治会長会議にはかって応援いただくことが出来た為か、元の姿以上にかえすことが出来てやれやれと思った事でした。
 僅か一年の会長であった為に、郷土産業唯一の製陶研究室の復帰を考えながらも、その事のならなかったことが、今なお心残りで、何時の日か昔の面影以上に立ち直ることを願って思い出の一文といたします。

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沿革の概要

初等教育のあゆみ

◆概説

 そもそもわが国の教育は、江戸時代に相当整っていました。その頃の教育は、幕府や大名がその領内で行なったものと、庶民が自らの子弟のために寺小屋や私塾などを設けて行なったものがありました。それらは任意に設けられたのでありました。
 明治五年の学制をはじめとして、わが国の教育は、国がその制度を定めたものでありまして、これによって全国の学校が統制され運営されたのであります。以下初等教育の変遷の大要を述べることにいたします。

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◆明治五年から明治十八年まで

 明治五年壬申七月学制が配布され、全国を八大学区とし、区ごとに大学一校をおき、一大学区を三十二中学区に分け、毎区に中学校一校をおき、一中学区を二百十小学区に分け、毎区に小学校一校をおくことに定め、全国で大学八校・中学校三百五十校、小学校を五万三千七百六十校をおく予定でありました。小学校は、そのころ人口六百に対して一校をおくことを目標としたものでありました。
 この小学校は「人民一般に必ず学ばねばならぬ」ものでありまして、尋常小学校を合わせて七種の小学校がありましたが、尋常小学は小学校の本体を示すもので、上等小学と下等小学の二等に分かれ、男女ともに卒業すべきものでありました。
 教科としては、下等小学では綴字・習字・単語・会話・読本・修身・書読・文法・算術・養生法・地学大意・理学大意・体操・唱歌の十四教科であり、上等小学はさらに史学大意・幾何学・罫画大意・博物学大意・化学大意を加え.土地の状況によっては外国語の一、二記簿法・画学・天球学を加えることになっていました。
 また小学教則には、上下二等の小学を各八級に分け、下等八級から上等一級まであって下等小学は六才より九才まで、上等小学は十才より十三才までに卒業させることを法則とし、事情によって一概に行われない時は斟酌するも妨げないことになっていました。
毎級の期間は六か月とし課程としては、学制にかかげてある学科を各学級に配当し、各教科に用うる教科書の基準を示して、その程度を明かにし、それらの教授の方法の大要も示されていました。

  下等小学 上等小学
 年齢 6 7 8 9 10 11 12 13
 級  8  7  6  5  4  3  2  1  8  7  6  5  4  3  2  1

 

<人民共立学校>

 羽津村誌―明治十八年官命によって編集したもの―に「人民共立小学校は羽津村の中央にあり、明治七年五月より光明寺を仮用す。本村及び八幡村・吉沢村・別名村・鵤村・茂福村・垂坂村の連合たり。後明治八年より茂福村は分離す。明治九年十二月三十一日調べで教員三人、生徒男九十五人女五十人。」と書かれています。
 思うにその頃まで寺子屋や私塾に学んでいた者を学制配布によって、その趣旨を理解した多くの方が、その子弟を就学させたのでありましたことと思われます。三人の先生方の氏名は、はっきりいたしませんが、そのころ有識の方々であったと思われます。
 明治十年七月の森きん女史-現森玄栓氏母堂-の卒業證書に「第二大学区三重県管下第三十六番中学区自第百三十番至百三十三番小学連区羽津学校」と書かれています。これは第二大学区は三重・愛知・岐阜・度会・額田・犬上・浜松の七県、第三十六番中学区は桑名・員弁・朝明の三郡、この中に一番から百三十三番の小学区がありました。羽津学校は小学区の中、第百三十番から第百三十三番の地域が連合して創立されたもので教場としては光明寺の境内、本堂前に建てられたということであります。羽津学校には下等小学だけで、上等小学は四日市学校-現在の中部西小学校-にありましたのでそこへ通ったのであります。
教育令
 明治十二年九月に教育令が発布になり、翌年十二月教育令が改正せられ、翌々年五月に小学校の教育綱領が公布されました。
 明治五年の学制は、教育体系の備わった立派なものでありましたが、当時のわが国の実力や民情及び文化の程度では、これを全国に実施することは困難でありましたので、実施後僅かに七年で廃止となりました。
 大・中・小学区制を廃して、各町村に学校を設置させることとし町村人民の選挙した学務委員をして町村内の学事を管理することになりました。学令は六才より十三才までの八ケ年、義務教育を十六ケ月に短縮し、その他学校の施設や経営は町村の自治に一任することになりました。
 ところが明治十三年十二月の改正になりましてからは、各町村は府県知事県令の指定に従って独立或るいは連合して小学校を設けること・就学義務年限を三ケ年に延長すること・学務委員は、町村人民の選挙した者の中より、府県知事県令がこれを選択して任命すること・委員中には戸長を加えること・学校の設置や廃止は上級官庁の許可を受くべきことなどが定められました。
 小学校の教科は、読書・習字・算術・地理・歴史・修身の初歩で、土地の情況にしたがって罫画・唱歌・体操・物理・生理・博物の大意を加え、女子のために裁縫を設くべきことになりました。
 さらに同十四年五月には、小学校教則綱領を定めて小学校を初等、中等、高等の三科に分け、初等科三年中等科三年高等科二年合わせて八ケ年となりました。

    初等科   中等科  高等科
 年齢  6  7  8  9  10  11  12  13
 学年  1  2  3  1  2  3  1  2

 

<額田学校>

 羽津村誌に「額田学校羽津村中央字宮東三五〇三番地、明治十四年三月本村・八幡村・吉沢村・別名村・鵤村・垂坂村連合して新設する。同年十月垂坂村は分離する。明治十五年一月一日調べ、一員七人生徒男百七十一人女百二十一人」とあります。校名の額田(ぬかだ)は平安初期(約千年前)に源順が選んだ和名類聚抄(略して和名抄)という古い書物に、そのころの全国の国名・郡名・郷名が調べあげられております。私たちの住む羽津地区や海蔵地区の東部にわたって額田の郷と称し、朝明郡六郷の一郷であります。上代この地方は額田氏の所領であったので名付けられたと伝えられております。
 校地は、明治初年ごろ羽津の庄屋伊藤伝十郎氏の宅地で、庭園や奥屋敷のあったところでありますが、明治九年十二月南勢におこった農民暴動が四日市へ襲来した時に焼かれて焦土となっていたところを、そのころの有力な方々のお骨折りで校地と定められ、校舎が新築されたのであります。
-校舎-
 羽津学校は、羽津の中央東海道浴いに建てられた指折りの立派な建物でありました。
 校門の右側に、のぼり台があって、羽津学校と染めた旗が立っていました。左側には二階建ての細長い羽津役場があって、そのうしろに屋根の上に避雷針(俗にチョンボリと称す)が立っている二階建がありました。この建物の二階の窓が、目と鼻のようになって玄関の寄せ棟の間から見え、玄関が口になっていました。下は教室で上の前半分は先生の控室で、後半分は裁縫室になっていました。女子はここで森いま先生に教えていただいたことを思いだす事でしょう。二階建てに続いて平屋の教室に南北に三教室あり、拝賀式には、仕切りがはずされるようになっていました。ほかに北隅か東に一室あってその隣が便所でその東に羽津村の郷倉がありました。運動場のまん中に柳の木があって縄をかけブランコをしたこともあります。運動場の東側には昔の庄屋の倉があって、鳩が飼ってありましたので鳩部屋といいました。玄関の前に松や柳の植え込みや、小さな池もありました。あまり運動場が広くなかったので、時々志?神社までかけあしをしたことを思い出します。

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◆明治十九年から同三十年まで

 明治十八年に官制の改革があって、新しく文部大臣に任ぜられた森有礼氏は、教育法令の刷新を断行しました。先ず明治十九年四月教育令を廃して学校令と諸学校通則を発布しました。
 学校令によりますと、小学校・師範学校・中学校は各々尋常・高等の二つに分れ、大学は法・医・工・文・理の五分科大学と大学院とに分かれ、小学校を卒業したものは尋常中学に、尋常中学を卒業したものは高等中学を経て、帝国大学に入学できるように、一つの学校系統が組まれました。
 小学校令によりますと、尋常・高等各各四か年、尋常小学校をもって義務教育とし、父母彼見人は児童に義務教育を受けさせる義務を持つものとしましたが、土地の状況によって修業年限三か年の簡易小学校をおいて、尋常小学に代用することのできるようにしました。
 小学の教科は、尋常小学校では修身・読書・作文・習字・算術・図画・唱歌・体操とし、女子には裁縫を加え、高等小学校においては右のほかに地理・歴史・理科を課し、土地の状況により英語・農業・手工・商業の一科もしくは数教科を加えることができました。簡易小学は読書・作文・習字・算術のみを課することとしたのであります。
 明治二十三年十月市町村制が施行さると共に地方学事通則を定めて小学校令を改正することになりました。小学校簡易科を廃止し、義務教育である尋常小学校の修業年限を二か年・三か年・四か年の数種としました。また郡内の学事を監督するために郡視学を設けました。小学校経営の本体を授業料としていたことを廃止し、すべて小学校の経費は市町村から支出することになりました。
 明治二十四年四月に小学校設備準則も定め、同年十一月小学校教則大綱を発布し、次いで国家の発展は国力の充実にあるとして実業教育を奨励することとなり、明治二十六年実業補習学校規程が制定せられて実施さました。

 校種    尋常小学校    高等小学校
 年齢  6  7  8  9  10  11  12  13
 学年  1  2  3  4  1  2  3  4

 

☆修学旅行

 私たちは明治二十六年四月羽津尋常小学校の一年に就学いたしました。そのころ服部粂太郎校長先生に教えてもらいました。先生はやせ形で温厚な方のように思います。修身のときに楠公父子桜井駅のお別れのことを、静かな調子でじっとりと聞かせていただいたことは、今でも忘れていません。
 それから一、二年たったときに関西鉄道が名古屋に乗り入れ開通いたしましたので、毎日のように往復する汽車を見に行きました。友だち同志が「私は箱を三つ見た。」「私は五つ見た。」とお互いに話合ったものです。
 明治二十七、八年戦役の頃でした。羽津村の勇士が名古屋の第六連隊に入営せられたお話をよく聞きました。何とかして名古屋へ汽車で行って連隊が見たいと思い続けていました。
 明治二十八年四月宇田校長さんが赴任されまして、間もなく名古屋へ修学旅行をすることになりました。あまりよくは記憶しておりませんが、小使さんが羽津学校という旗を持って先頭に立ち、その後からぞろぞろと名古屋の市中を歩きました。
 第六連隊の営舎をはじめいろいろの建物を見せていただき、集会所でお茶や、お菓子をいただいていろいろと教練を見せていただきました。それから校長先生のお宅によって庭先でゆっくり休ませてもらいました。
 今でも電燈を見ると思い出すことは、旅行先の旅館に着いて泊ったことです。夕飯をいただいていると電燈がパット光りました。一同びっくりしましたが、中にはおそるおそる電球にさわり、よろこんで「あついことはない。」と不思議がったことであります。

☆拝賀式

 十一月三日の天長節のときでありました、三つの教室の仕切りがはずされて、ひろびろとした式場の前方にある拝揚台に、両陛下のお写真が飾って白い幕が張られてありました。
 私たちは式場の後の方に並んでいました。お客さんたちは向って右側、先生たちは左側に整列しておられました。
 君が代を歌いますと、白い幕が引かれてお写真が見えます。校長さんが勅語をお読みになったあと、校長さん、お客さんの順に奉拝いたします。生徒代表が奉拝するときは、一同も静かにその場で奉拝します。白い幕が張られますと、祝歌を唱います。これで式がすみ、一同お祝の餅をいただいて帰るのでありました。今でもその時のありさまがちらちらすることもあります。

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学生生活を懐古して           別名町 森 きり

 羽津小学校の創立九十年誌に、私のような七十年も前に学んだ老婆の思い出を聞いてくださる人があるのかしらと思いながら書いてみる事にしました。
 小学校四年間が私の生涯に行った学校生活です。それだけに七十年も前の事ながら今もなお眼の前に浮かべる事が出来るのでしょう。明治二十六年に当時私は七つでないと入学出来なかったのを六つで隣の年上の友だちについて行って、そのまま入学させて貰ったのです。他の人たちは、皆机や椅子があるのに乱入者の私にはないので仕方なく教室の外に居ると、先生が呼び入れてくれました。そこへ母親が連れ戻しに来たのですが、どうしても戻ろうとしないのでそこで先生が「学校へ入った限りは雨が降っても風が吹いても皆と一しょに休まずにこれますか。」と、くどく念を押されて「はい。必ず来ます。」と誓った事を覚えています。そのせいか学業の万は良い成績を貰った記憶はありませんが、四年間一日も休まず卒業式には沢山のほうびを貰いました。また当時「梅本」と名のつく人は皆良く出来たので、私も梅本の苗字になりたかったなど懐しい思い出です。
 あれは三年生の時、日清戦争の直後だったでしょうか。三、四年生で富田駅から汽車に乗って名古屋へ二晩泊りで招魂祭に行きました。初めての旅として街を出歩く人や、人力車の轍の音のにぎやかさに驚いて、なかなか寝つかれなかったものです。これが当時の修学旅行で、その旅費が三十銭で後から補助があって七銭戻して貰いました。
 翌年の正月に金場の地蔵さんの前に杉の華門が建って、その上に赤い椀がのせられていました。その椀は、台湾を占領した意妹のものだったそうです。
 毎年祝日には学校で鰻頭を貰ったのですが、その年は戦争に勝ったというので、勝ち栗の袋入りを貰った事を覚えています。
 大正年代に入って、子女教育の為に当時の学務委員さんの骨折りにて駒木根はるゑ先生を迎えて、裁縫学校が出来ました。小学校を終えて、此の裁縫学校で三年間の教えを受けた人も数多い事と思います。後にこの先生の徳を慕った同志たちで校地の北西の位置に謝恩記念碑が建てられたのですが、その後学校の拡張によって現在の所に移されたのです。
 私はこの土地で生まれて育ち、七十余年を暮し、その間校舎が変わり先生も幾度か変わりましたが、七人の子供と数多くの孫たちも此の学校に通う間、一度も土地を離れず、此の学校の春秋の運動会・学芸会・懇談会などそれはもう何度この校門を通った事でしようか。九十年の歴史の間、七十年を羽津小学校と親しみ誰よりも長い年月生徒として、また母親として、此の学校に関係して来た事を何よりの喜びと思わせていただいております。
                     (明治三十年卒業生)

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◆明治三十二年から大正五年まで

 明治三十年代の前半期は、わが国の学校制度全体について、改正が行われましたので小学校も中学校もその制度が整備されるようになりました。
 明治三十三年八月に小学校令が公布されると同時に小学校令施行規則も制定されて、ここで小学校の教育が整備されるようになりました。それは明治三十七、八年戦後における教育方策の一として、従来の制度に一段と進歩を見たのであります。
 この小学校令で尋常小学校の修業年限を四か年に統一しただけでなく、将来義務教育年限延長に備えて、二か年制の高等小学校も尋常小学校に併置して連絡ある教育を行うことを奨励し、尋常高等小学校として義務教育を六か年制度の実現の準備としたのであります。
 小学校の学科課程としては、従来読書・作文・習字の三分科を国語の一科目とし、読み方・書き方・綴り方をそれぞれ授業時間を別に考えることとなりました。学科課程改正の重要点は、教科目を尋常小学校には修身・国語・算術・体操の四科目とし、土地の状況によって図画・唱歌・手工のうち一科目または数科目を加え、女児のために裁縫を加えることができることにいたしました。高等小学校の教科日は修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操とし、女児のために裁縫を加えることとなりました。
 要は教科目の数を減じ力を必須科目に集中させ、実生活の必要に即応することが考えられました。さらに修了または卒業の際に行われる試験を改めて平素の成績によって学業を判定することになりました。
 なお負担を軽減するために小学校で使用する漢字や仮名遣いを簡単にし、尋常小学校で使用する漢字をおよそ干二百字内外に選定制限することになりました。
 明治三十六年四月小学校令を改めて「小学校の教科用図書は文部省において著作権を有するもの」と規定せられましたので教科書の国定制度の方針が決定されたのであります。

校種 尋常高等小学校 中等学校
尋常小学校 高等小学校  
年齢  6  7  8  9  10  11  12  13  
学年  1  2  3  4  1  2  3  4  

 

 明治三十七、八年戦役後において教育全般の著しい拡充を見ましたが、小学校に関しましては明治四十年三月の小学校令改正によって義務教育が延長されることになりまして、従来の尋常小学校四年を六年に改めて義務教育となったのであります。
 この義務教育年限二か年の延長は、わが国初等教育史上画期的な改革でありますが、その方策の決定の由来が同年三月文部省訓令「小学校令及び同施行規則中改正の要旨や施行上の注意事項について義務教育年限延長の事情と方針」が詳説されました。
 明治四十年三月に改正された小学校令は一年の猶予期間をおいて、翌四十一年から実施することになりました。これで尋常小学校の修業年限も六か年と定め、高等小学校の修業年限を二か年とし、場合によっては延長して三年とすることになりました。
 この制度が昭和十六年春まで何の変化もなく三十年以上も続行され、初等教育が六か年の尋常小学校をもって一段落とし、それ以後は各種の上級学校に進学するという、わが国の学校制度の構成が完備したのであります。
 尋常小学校の修業年限が六か年となりましたため、学科課程全体にわたって改正が行われ教科目は修身・国語・算術・日本歴史・地理・理科・図画・唱歌・体操とし、さらに女子のため裁縫を、また土地の状況によって手工を加えることが出来るとし、特に手工を重視いたしました。
 高等小学校の教科は従来と同様の教科を授けることとし、手工・農業・商業の一科目又は数科目を加え、土地の状況により英語を加えることとし農業・商業・英語は随意科目こすることができるようになりました。
 これら教科目の新しい編成は、原則として従来高等小学校の第一、二学年において授けられた教科目を尋常小学校の第五、六学年に移したものであります。これと同時に小学校令施行規則の改正が行われ、戦後の情勢に基づいて検討されました。また尋常小学校および高等小学校の時間配当が表示され、この学科課程が長く小学校の教科編成の基準となりました。
 明治四十三年二月の訓令で、農業や商業の科目の重要性を強調し、同四十四年七月には小学校令施行規則を改正して教育内容の実際化の方針を指示せられ、高等小学校においては手工・農業・商業のいずれか一つを必須科目として課すこととし、またその授業時間数を増して教授の効果をあげることにしましだ。
 従来独立の科目であった英語を商業の中に加えて授けることができるようにして、実用上に一層適切な内容となりました。このようにして義務教育が六か年となった制度のもとで高等小学校が尋常小学校の延長でなく、在学二か年をもって国民生活の実際に応ずるような内容を授け、まとまった一般教育を与えることになりました。

校種 尋常小学校 各種上級学校
高等小学校  
年齢  6  7  8  9  10  11  12  13  
学年  1  2  3  4  5  6  1  2  

 

☆学校の移転改築

明治二十五年九月十七日の臨時村会で年々増加する児童のため、明年度に学校の増築設計の必要であることが促がされました。同年十二月二十五日の協議会で、学校の教室が狭くて児童の収容ができないので、将来の経営方法について次の二項が問題となりました。
 一、羽津村役場の家屋を教室に改造し、当分の間役場は適当な借家を照会してこれに引き移ること。
 二、学校の教室北より二番目の教室を東に広げ一時の急場を補足すること。
懇談の末に第二項に決定して越年することになりました。
 同三十六年一月十七日臨時村会で、森七兵衛氏から次の提案がありました。学校の教室が狭いので教室を東に広げることを取り消し、更に新築経営をするため候補地数か所を定め、その中から郡長の指定を申請することについて理由説明がなされましたので、列席の識員も一応納得して散会いたしました。
 同一月二十日左記四か所を校地の候補地と定めて郡長に選定していただくこととし稟申いたしました。
 一、字宮道の南北の田地
 二、志?神社西南の畑地
 三、字永須賀の畑地
 四、現校地を西方に拡張田地
 一月二十三日、郡長の命によって佐羽内第一課長心得が四候補地を臨検して、同二月七日郡長より「羽津小学校の位置を志?神社西南高地に改めて指定しようとする」旨の照会がまいりました。森七兵衛氏は指定地において東西三十五間南北四十五問の土地を校地と仮定いたしました。同月十七日村会において郡長よりの諮問になった件について審議をうけた結果、全員同意することとなり、校地を決定いたし同時に改築委員を選定して散会することになりました。
 自来、森七兵衛氏を委員長として十数回にわたって委員会を開き、村長・校長・学務委員をはじめ村民挙げての協力によりまして、五月二十九日付け県知事の校舎改築の認可を受けて着工し、年内に完成することになりました。
 ここに委員長森七兵衛氏はじめ委員各位の先見の明と努力とに対して厚く敬意を表するものであります。


☆改築された学校

 明治三十六年十月改築落成した学校は、志?神社の西南の高地で、西には遠く鈴鹿の連峰を望み近く緑の垂坂山を眺め、東は碧色の伊勢の海を見る景勝の地であります。
 校門を入り右に玄関があって、左側が職員室その右隣りが応接室、その奥に宿直室があって、それと続いて物置きと小使室がありました。
 この建物と土間をはさんで教室が四つ東西に建ち、さらに土間をはさんで西南に二教室が鍵の手になって建っていました。尋常科四教室と唱歌室のほかに高等科が一教室あわせて六教室ありました。そのころは高等科に就学するものが少なかったので、一、二年が同じ教室で複式授業をしていたのです。
 運動場が広々としていましたので、思う存分走りました。そのころ野球はありませんでしたから、テニスコートらしいものがありました。土質がよいので競争するにはまことに理想的でありました。毎年一回三重郡学校の連合運動会が菰野や朝明川原で行われましたが、いつでも羽津小学校は良い成績をあらわましました。選手の中には青年になった時に県の選手になり、オリンピックの競技に出場すると称えられたこともありました。
 羽津小学校の児童は、いろいろの教科についても優秀な成績をあらわしました。ある時代には算術のよくできる学校として県下に校名をとどろかしたこともありました。

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あの時代ありせば               森 宗七

 私は明治三十一年に羽津尋常小学校へ入学いたしました。員弁道路から志?神社前を下り旧東海道路沿いの石鳥居を潜ると、妖石と鳥居と梅本様宅の間に大石があり、小石が道路東側の家の軒下から向い合ってあり左へ曲って梅本様宅の高塀の部分が、元学校の入り口で、真中に角材石の門柱二本建ち両妻と門の扉二本は鉄製格子作りでした。門を入ると左側に村役場で村長様他二、三名いられました。正面玄関前には堀抜き井戸と、石積みの五十六平方米の池で、池の上へ枝垂れ柳の大木が茂り松の木・さつきもあり、他には鯉もいました。新緑の柳、花のさつき、時には池の水に、きれいに映りました。が、井戸水の湧きが少なく、柳、さつきの落葉に、生徒の硯石を洗ったり、きたない事もたびたびありました。玄関を昇ると階下の教室と平家建ての三教室と北隅に鍵の手に薄暗い唱歌室があり、オルガン一台がありました。音符は1234(ひふみよ)で教わりました。玄関上二階は教員室と畳敷きで、森いま先生が女生徒に裁縫を教えられました。校庭は体操も出来ないほど狭くて、向いは伊藤様の鳩小屋で白壁のいくつかの丸穴から鳩が「クー。クー。クー。」と鳴いて出入りして居ました。教室裏は全部泥田で、時には蓮の花が吹きました。
 駒木根校長先生始め諸先生は熱心に教鞭をとられ、すべて厳格でした。
 駒木根先生・森いま先生外二名の方は、羽織り、袴を召され、森哲也先生は、黒詰襟洋服・下駄履きだったと思います。私らは、縞か紺餅の着物に、藁草履(ゴンゾ。紙鼻緒。ヒヤメシ草履。)または、日向下駄でした。男女共学で鞄とてはなく、物資の少ない時代ですから学用品は修身・読本・習字の教科書と、草紙・石盤・毛筆・墨・石筆・鉛筆・手帳を風呂敷包みで抱え、弁当は木繰りの漆塗りか瀬戸焼きの丸型飯副飲入蓋の物を小風呂敷き紐または網袋で肩に掛けて通学いたしました。
 学習は、修身・読本・唱歌は先生に指導され、習字は教科書をみて草紙に表裏共真黒になるまで使い手指も黒くなりました。算術は石筆で石盤(紙石盤もあり)練習しました。また握小拳大の算盤球で一メートル以上の大きな算盤で九々も教わりました。
 入学当初は、頭髪は剃刀でクルクルテカテカ坊主に剃られていましたが、中にはサランポ(頭のてっぺんに皿を伏せた程、頭髪を残し、麓を剃り落とし)またはビンタ付き(四日市祭り人形のように両コメカミに巾二センチメートル、長さ六センチメートル位、頭髪を長くつけ他を剃り落す)の者もいました。
 祝祭日には駒木根先生は、フロック(洋服)他の先生や来賓の村長様其の他少数は紋付き、羽織り袴で参列、矢守主計大尉殿(現矢守貞吉氏御親父)は当時軍服姿を見た事もないので、軍人の礼装皮靴に軍袴は赤の太い則線入衣肋骨飾り入れ金モール付き軍刀、沢山の勲章・記章を併用せられ、赤白の服帯をしめられ、帽子は天に星型金銀模様に紅白の羽毛飾りで白手袋ご来校の光景、実に感激いたしました。
 我々生徒は晴れ着の羽織り袴に下駄覆きで静粛に意義ある祝祭の式典に列しました。
 なお小生入学当初チョンマゲ姿の藤井老人を(関取幕下力士の髪のよう)異様に感じ、家で話したら昔の男子青年に達すれば、元服とて髪を結い、元服名を付け終生、みなチョンマゲ姿でしたと。
 藤井ご老は、近郷を最後までチョンマゲ姿を維持せられ、天秤棒を担いで行商に励まれたまことに勤勉な方と聞きました。
 私らも矢守大尉殿・藤井老人を範として大いに努力する覚悟でしたが、つい忘れ果て平平凡凡の内、老界に入り今にして慚愧に堪えません。

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恩師を思う             八田町 後藤 弥太郎

 私の入学させていただいたのは、明治三十三年の事で、当時の学校の制度は尋常科四年、高等科四年となっていた時代で、当村では義務年限の尋常四年までしかなかったのであります。学級も一学年一学級で四学級、先生も校長先生の外三名で、校長先生を加えて四人でした。
 私が今日l番深く心に残っているのは、今から六十四年前の事ですが、私が入学してから一年間導き教えていただいた当時、今の城山町にお住まいの森哲也先生の事であります。思い出せば、先生の面影が眼前に現われ、お声もはっきりと耳の底に残っているのであります。これは私が覚えているのではなく、先生が私の心の中に活きていてくださると言った方が本当だと思います。
 当時の私は、本当に本当に何も知らぬ無知文盲の白紙同様のものであったのであります。それを読み、書き、算数、行儀、その他唱歌など何くれとなく我が子の如くに教え導いていただいたのでした。本当に先生のご苦労は、並大抵でなかったと思うのであります。
 こうして一年間、五十数名の生徒を受け持っていただき、一人のこさず二年に進級させたいとの先生の命がけのお導きの程を思う時、誠に感謝に言葉もない程に思うのであります。こうしたありがたい先生のお導きで一年の課程を終えさせていただき、私どもは先生の手を離れて、二年生に進級させていただいてからの事でした。此の頃、先生の顔色が少し悪いように思っていたのでしたが、ある日皆の生徒を集めて先生の話は「都合で先生は今日限りで、学校を退く」という悲しい別れの言葉でした。私共は何とも言えない、さびしい気持ちで先生と別れたのでしたが、先生は再び学校へは出られなかったのであります。思うも悲し先生は、私共を思うあまり、わが身の程も打ら忘れて学校へ出向いていただき、身体に無理をなされたため健康をそこなわれたのでした。思えば先生に調子をとってもらって教えていただいた歌のかずかず、今なお忘れずに心に残っているのであります。先生が教えの道に身を立てられ、有望な前途を残して中途その道から身を退かれた事、かえすがえすもうらめしい限りであります。
 二年三年と進ませていただき、四年生になって私等は校長駒木根八郎先生に一年間教えを受けたのでした。校長先生は、すぐれた徳の高い先生でした。先生は此の一年限りで、私ら生徒の大部分が学業の終りであるという、お気持ちの連続であったでしょう。一日一日の慈愛に満ちた、ご訓育はよく私らの頭脳に浸透し、私らも一心に勉強に励んでいるうちに、はや、卒業も間近かに迫ったのでした。
 こうした暖かい先生のご指導により、この一年間に私共の心は大きく成長したと、われながら思うのでした。
 螢の光に送られて、私共のめでたく卒業させていただいたのは、明治三十七年三月の事でした。
 今日、私浅学ながら社会に立って、なんら不自由を感ぜず、また人生の道を誤らずに進ませていただくことば、全くこうした諸先生の暖かい、ご訓育の賜物で入学当時をしのび今日を思う時、教育の尊さ、ありがたさに感謝の日日を送っております。

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                      羽津北町  梅本きぬ

 「おばさん、昔の学校を見せてもらいに来ました。」と羽津小学校の子供さんが、三々五々尋ねて来られます。私共の屋敷うちに、今もなお残っております昔の学校の一棟を、子供さんたちと一緒に眺めながら、今さらのように、すぎし昔をしのんでおります昨今でございます。
 今から、丁度六十年程前、日露戦争の最中に、今小学校のあります土地に、新しい校舎が建ちまして、私が小学三年の五月に、その新しい羽津小学校へ引越したのでした。それまでの一年生、二年生とは大宮町の実家からこの町の学校へ通いました。町の学校には鉄の門がありました。ずっと西南添いに、役場がありました。門からまっすぐつきあたりの玄関の所が教員室、それから北へ教室が四つ、かぎの手に音楽室がありました。従って運動場も、かぎの手になっていました。その校門に近い校庭で、上級の森千代さんたちに手を取ってもらって、「織りなす鈴……」と、歌いながら、校庭一ぱいに輪になって、お遊ぎをしたことなど、懐しく思い出しております。その頃の先生は五、六人、生徒は二百人位だったかと思います。狭い教室の中で「モシモシ亀ヨ、亀サンヨ」のお遊ぎをしたり、時にはお宮までかけ足をして、境内で体操を教わったこともありました。
 その頃の私共の先生は、人見先生でした。新しい学校へ移った三年生の時に教わったのは、森哲也先生、四年生は駒木根校長先生に教えていただきました。運動会には、水谷善太郎先生のバイオリンの伴奏でお遊ぎなどいたしました。新しい学校の校庭は広く、生徒は少なくてひっそりとしたものでした。
 たしか三年生の時であったかと思いますが、日露戦争が日本の大勝利に終ってその名は世界にとどろきました。電報やら号外やらで歌え祝えの大さわぎになりました。そこで私たち学校の生徒も旗行列で、校門を出て、ずっと浜の方まで行き、かちどきの歌をうたって羽津を一回りした事を覚えております。
 当時の小学校は四年生までで、五年六年は高等科になっておりました。私は高等科一、二年と、女学校を合わせで六年間四日市へ通いまして、十九才の秋、この家に嫁いでまいり、それ以来五十年、お天気さえよければ昔の校庭だった裏庭や、畑に出て草花や野菜作りをしております。
 今年は創立九十周年の記念の年だとききまして、感懐も新たに、つたない文を綴ってみました。

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開校九十周年に寄せて              森 真現

 思えば私をはぐくんでくれた唯一の羽津小学校が創立されて、春秋風雨、早くも満九十年を迎えるに至った。自来この校門から幾千人の卒業生を社会に送り出したことか!!不肖私が尋常科(六年)を卒業させていただいたのは、忘れもせぬ開校より三十五年後の明治四十二年二月二十七日であり、クラスメート合わせて二十七人(男女共)であった。其の過半の人は学業に終止符を打ち、世の荒波中へ飛び込んだのであった。高等科へ進まんとする人は、其の地勢により四日市学校(寄留届を要した)或るいは富田、または大矢知学校へと転校したのであった。
 高等科卒業後更に進んで、津の師範学校・富田中学校・四日市商業学校へと、入学した者もあったが五指を屈するに至らなかった。当時は今と違って、父兄は勿論のこと本人共教育意欲に欠けていたのは事実であった。何となれば折角子供の教育に金をつぎ込んでも卒業後の就職口が容易に見つからなかった。今では官公庁・其の他各種事業会社の群立で、何処へでも行けるのと雲泥の相違であった。
 今の児童は実に恵まれている。頭と、健康と、金の三拍子が揃うなら大いに進学すべきである。就職は安定している。
 「男子学ばざれば即ち己む。学ばば当に群を超ゆべし。安(いずく)んぞ奮発して志を立て、以て国恩に応え、以て父母を顕わさざるべけんや。」という名句は、幕末の大学者頼久太郎先生就学時の喝破なりときいている。
 また、たとえ上級学校へ進まずとも、自己の職域で全心全霊をかたむけ、其処の第一人者たるべく心掛けて精進する時は、前途に洋洋たる運命が開けるのである。学問に対するハンデーなど問題にする勿れである。
 最後に母校の発展、諸先生方並びに在校生諸君のご多幸とご健康を祈る次第である。

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松の木とともに             平野改め 柴田 とさ

 母校羽津小学校も九十周年を迎えて、おめでとうございます。私共は、明治二十九年度の入学生で、六十四才のじじばばでございます。
 若き日の学窓の数多き思い出は、ただ楽しかった事のみ夢のように浮び出て、苦しかった事、悲しかった事等、全然なかったように。今の子のように勉強はほとんどせず、のんびりした楽しい一日一日であったのでしょう。しかし勉強しなかったのは私だけだったかも知れない。
 校地は今の十分の一ぐらいのものであったでしょうか。それでもとても広い運動場のように思い、遊動円木・ブランコ・輪転機等と飛び回って遊び、秋の運動会も楽しい一つであった。三年の時、上級生といっしょに女生徒ばかり初めてダンスをした。「あーおばしげれるさくらいの」の唱歌を歌って、三学期になると談話会があった。今のように劇をやるのでなく、読本や修身(昔はこう言いました)の本を読んだり、お話をするのです。本の文句を棒暗記して、直立不動の姿勢でするのです。へたな話でも手を叩いてもらうと喜んでいたものです。運動場をかけまわって、のどがかわくと、ガランガランと車井戸の水 を汲んで、つるべから水を飲もうとすると、おうめさんという小使さんが「そんな水を飲まんときな、茶をやるで。」と言ってくれた。親切なおばさんだった。歩きかたに特徴があって印象に残っている。
 こんな楽しい思い出しか浮かばないのは、確かにご仁徳高い優しい先生方に、ご指導を受けたおかげだと思います。恩師駒木根・水谷両校長をはじめ、伊藤国次郎氏・梅本茂一氏・渡辺啓心氏の三先生には、ほんとうに暖かい教えを受けてしあわせであった。人間の性格形成の時期と申しましょうか、この三年四年の大切な時に良い先生に受け持っていただいたので、我々同級生は皆りっぱな堅実な人生を送っている。そして今だに毎年梅本先生をお迎えして、同級会を開き、先生には昔と変わりなく昔話やご指導をいただいて、皆が楽しい一日を過ごします。このじじばば連が、恩師を交えて昔なつかしく語り合う事は ほんとうに仕合わせで、誇りとしています。その楽しかった授業を受けた懐しい校舎の職員室・七教室・小使室等の建て物はすっかりなくなって、今はりっぱな校舎が建ち並び昔の面かげは何もない。今さらの如く母校の繁栄の姿に、歓喜と驚異の眼を見はっております。ただ運動場の東の土手のそばに立ち並んでいる松の木のみが、昔のままに濃い緑をなつかしく残している。我々をえ顔で迎えてくれるような気がする。この松の木は私たちが入学する前の年に植えられたそうである。「歴史はこの松にきけ」。と言いたい。

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母校の土をふみて          鈴鹿市西条町 藤井 よね

 九十年の齢を数える母校に偶然にも、森きり様と同席させていただきました。
 故郷を離れて三十余年間、母校の事など実際に頭にも浮かびはいたしませんでしたが、いささかの徳分にて故郷の長老格のかたがたばかりの仲に加えていただきまして、誠に嬉しく懐しく、またありがたく思いました。
 その昔、学びし時代の校舎も影もなく変わっておりましたが、地・水・火は、無限に変わりなく、校庭の土を踏むにも心あたたまる思いがいたしました。
 会議室には、年代の校長先生のお写真が、かかっておりまして、その中の幾人かの先生は学びし恩師でありまして、まざまざと幼き思い出が湧き出て参ります。自分が学びを受けまた子供が教えられ、毎日孫どもの登校の姿を見ていながら、母校の事など思った事もなかったが――と申し訳なく恥しく思いました。
 若い役員様には顔なじみもありませんし、また長老のかたがたは一昔も先輩のお人ばかりで、真に竹馬の友の感はいたしませんでしたが、何か知ら亡き父母に会うたような嬉しさに過去がよみがえってまいりました。
 しかしながら、それは恩義を忘れていたのではありません。移り変わる時代の波に乗り、与えられたる人生航路を進めていて、思う暇もなかったのでありましたが、一度び母校の土を踏めば、その昔八年間に六人の恩師に教えられし思い出は、まざまざと胸によみがえってまいります。
 特に私は横着者で決して人に負ける事が嫌いで、通称「男女」で満足しておりました。それだけに受持ち先生以外の先生からも、かわいがっていただきました。よくいう「ヒイキ」のことばも、私にはつらくも何とも感じられませんでした。
 ――そうっ。まさしく餓鬼大将と言う口でしょうね。
   中でも一番思い出となっている事があります。六年生は森英太郎先生受持ちで第一時間目修身の時に教壇に上られて
 「起立」 「礼」
腰をかけると、すぐに先生は
 「森先生の嫌いな者は手を上げよ。」 と言われました。私は、
 「ハイ嫌いです。」
と元気よく手を上げて、回りを見ますと誰も手を上げている者はありませんが、もうおろす事も出来ず上げっぱなしです。しばらくすると、先生はニコリともなさらずに
 「藤井よねは、エライ。正直だ。皆も本当は嫌いなのだろう。手を上げイ。」と言われましたら、ぞろぞろとたいていは手を上げました。それから十二年後には長男の入学、エライとほめられました森先生は、校長様、懐しく嬉しいですね。
 「子供の入学ですからよろしく。」と言えば、すぐ昔の話で大笑いでした。
 今も校長室に入ると歴代校長先生の写真がかかっておりますが、何かしら目頭が熱うなってまいります。また、裁縫の沢木先生に言いつけられて、放課後毎日着物の見本二十分の一を作りました。
 私は子供が早く出来たおかげで、親子二代の思い出に楽しむ事ができます。図書室に行けば親子の書き方が大きなジクに、はり出されて並んでいました事など、五十年前の過去とも思えません。人生過去は善悪にかかわらず尊しだと思います。その過去を時代に応じて伸ばして行けば、若人も喜んでついて来るものと思います。絶対に年だけは誰しもとるものを、なぜ年寄りになるのか?年は勝手に取らしておいて若い者の先頭に立ち、孫共の立派に成人するのこそ我が姿であると、はりきっております。
 校長先生のお写真の前で「孫共の教育はおまかせくだされ、立派に社会人として世の中に送り出します。どさくさまぐれの時代に、大きくなった子供たちに孫は任せておけないと張り切ります。」とお誓い申し上げるのこそ、恩師にむくゆる道ではありませんか。よく聞きますことばに、時代が違うとか年寄りの出る幕ではないとか言いますが、大きな間違いであります。
 時代に人間が着いていってはなりません。時代も文明文化も皆人間が作るのであります。若人だけでは世の中は進み行きません。過去をお手本に時代の波を乗り越えてこそ、発展をするのであります。  年端を重ねし母校の土を踏みて、また新たる血潮がよみがえってまいりました。幾年あるかわからねど瞼を閉じ終るまでは母校と共に孫共と共に、明るく教え導き勉強する事を、母校の土にお誓いいたします。
 母校に学ぶ幼き友よ。幸あれかし。とお祈りいたします。

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◆大正六年から昭和十一年まで

 第一次世界大戦後は、各国に新しい教育運動がおこりまして教育制度上にも大きく改革の機運がつくり出されました。
 わが国では戦後の教育万策を立てるために、内閣に臨時教育会議が設けられまして、教育の問題はすべてについて検討されて、それぞれの問題についで答申が行われることになりました。そうして、この答申によって文部省の教育改善の立案をなし、これを実施することになったのであります。しかもそれらの答申は今までにできあがっていた制度のわくの中で、これを新しい要望に答え、いかに編成して運営するかということに力を注いだのであります。
 小学校教育の根本方針として
 一、国民道徳の徹底を期し、児童の道徳的信念を強固にし、殊に帝国臣民たるの根基を養うに一層の力を用うること。
 二、児童身体の健全な発達を図るため、適切な方法を講ずること。
 三、知識技能の教授においては、児童の理解と応用を主とし不必要な記憶によって心力を徒費する弊風を一掃すること。
 四、諸般の施設および教育の方法は、画一の弊風を脱して地方の実情に適切ならしむべきこと。の四方針を示しているのであります
 学科過程や教科書に関する改善の方策は、従来の基本方針を承認して、その取り扱いに関する改善事項を掲げ、これをまず拡充するという方針でありました。
 大正八年二月小学校令および同施行規則を改正し、尋常小学校においては学科課程を整理按排して、児童の心身の発達に適応させることとしました。第五学年から教科が急に増加する方針を改めて地理・歴史・理科のような教科は、第四学年以下から課して、急に教科の増加するのを綬和しようとしました。また、国史を重視し、これによって国民道徳の振興に資せようとして、時間数を増加し、教授の方法を改善する必要のあることとしたのであります。
 高等小学校においては、ここに学ぶものは義務教育を終了し、まもなく実際生活にはいるべきものであるという見地から、教科の取捨選択の範囲を広げ、実際生活上に必要な教科を授けることになったのであります。
 大正十五年四月小学校令施行規則を改正して高等小学校の内容の改正をはかり、高等小学校の必修科目のうち図画・手工および実業を加え、女子に対しては裁縫のほかに家事を必修とすることに改めました。その他算術においては、数の代数的計算と幾何図形に関する知識を与えること、珠算はこれを必修することとし高等小学校を実際生活との関連に基づいて完成教育を考え、初等教育の終結としての独特の体制のものとしたのであります。

 

☆朝礼

 私が高等小学校第二学年の級長をしていたことを思い出のままお話しいたします。
 登校し正門に入りますと、奉安殿の方に向って敬礼いたします。始業の合図で全校児童が玄関に向って各学年各学級毎に整列します。校長先生が壇に上られますと、級長がその前に進んで「お早ようございます。」と挨拶いたします。いろいろとお話や伝達がすみますと、休操の体形に配列します。係りの先生による大きな号令で朝の体操がはじまります。体操が終わると、元の体形にかえって静かに教室に入り授業を受けたのであります。寒い時などには、体操のかわりに校庭の周囲を五分間ばかり駈け足をいたしましたが、体中の血行がよくなって一日中、元気がみなぎっておりました。今でも朝礼のことを思い出して緊張した一日をすごすこともあります。

 

☆参拝

 二月十七日祈念祭、十月十七日大祭と十一月二十三日新嘗祭には全校児童が、志?神社に参拝いたしました。大祭参拝の様子をお知らせすると、高等科児童は木銃を持って帯剣し、軍事教練・兵式体操がありました。その出立ちで前列に整列しております。児童総代が参列の来賓と共に玉串を奉貢するとき「一同敬礼。」の号令と共に捧げ銃をいたします。国の鎮めのラッパが終わると銃をおろします。その時の気持ちは今でも忘れません。一同が参拝を終わると祝菓子をいただいて帰校したのでありました。

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思い出                 羽津町 森 鈴

 私たちが入学したのは、今から四十五年前の大正八年四月でした。女の子は肩掛け鞄をかけ、着物に前掛けという恰好でした。
 各区別に通学団で登校しました。別に叱られた事はなかったけれど、団長さんはこわかった。
 担任は内田たよ先生でした。或る日、耳のそうじをしてもらったら、丸薬のようなのがでてきて、私も先生もびっくり。そっと、ふところから紙を出して、ていねいに包んで「帰っておかあさんに見せな。」といって、わたされた事がありました。やさしい先生でしたが、もうご他界なされましたとか、聞いております。
 四年生の頃だったと思いますが、まだ学校でたばかりの川口かづ子先生が、お世話くださいました。今なら、きっとミス四日市ぐらいの美人の方でした。静かでやさしい先生でした。後日私たちが東京旅行の時、わざわざ旅館まで迎えにきて、あちこち案内してくださいました。わずかの間でしたのに、よく私たちのことを覚えていてくださった事だと、本当に嬉しかったのです。
 今も東京にお住いでいらっしゃいますか?
 いつの頃か堀内義一先生がこられた。受持ちでなかったけれど、背が高く頭は今でいうと、慎太郎がりでいつも歌を歌っていられた。左手に教科書を持ち、時々タバコをふかしながら、大きな声で廊下を歌って歩かれた姿が今でも目に浮かびます。
 月のサバクをはるばると……旅のラクダが行きました。服部校長先生が流行歌を歌うのはねえ……と言われたそうです。今どこかで校長先生として奉職していられるとか。お元気でしょうか?  五、六年の受持ちは臼井先生でした。とても音楽が好きで、バイオリンをひいたり、また作曲をしたり、いつも学芸会の時には聞かせていただきました
 確かⅠさんの作った歌で「岸の柳がゆらゆらと、糸の小枝を動かして小川の鏡にうつってる」先生が作曲して私たちはいつも歌いました。
 Ⅰさんお元気でお暮しですか。その後の動静は?
 先生はよく生徒を叱りました。私たちもよく叱られました。でもそれはやはり生徒を思う一念の表われではないかと思いますけれど‥‥。先生に教えていただいたチンクル、チンクル、リツルスター。グットバイの二曲は今でもはっきり覚えています。今亀山にお住いの由、其の後お元気でしょうか。
 三月になると例年のように学芸会が催されました。学年で劇・合唱・独唱など種々しました。また劇によっては高等科と尋常科共同でしたのもありました。大楠公がそれで、正成には高等科のKさん、正行には尋常一年のMさんだったと思います。桜井の駅の別れのシーンはとてもよく、あれほどまで親子意気があったものだと先生もほめられたとか聞いています。
 今なおあの時の歌が「共に見込り見送りて別れを惜しむ折から‥‥」そして、その様子が浮かんできます。
 Kさん、Mさんお二人ともお元気でしょうか。

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瞼の底に          昭五尋常科、昭七高等科卒業生 むつみ会

 学校の歴史は、環境、生徒も勿論だが、世の推移と国定国策方針に比例すると申せましょう。
 軍隊教練銃庫のあった頃より、指ふれる事も知らなかったオルガンの大衆化・ホワイトカラー等の言葉の生まれた今日と卒業して三十余年鈴鹿の連峰と共に眺めてき、青年団活動を通じ、子の親として、PTA会員として今日に至るも全く感無量。 何もかも変った。コの字形校舎、円形百メートルが精一ぱいの運動場を、一年生から裏を広げて百メートル直線コースとし、全く当時としては羨望の運動場。三重郡第三部と称して八校グループを招待しても充分で、子供心にも天をつく気持ち。生徒自からのブラスバンドの運動会、先生も生徒も無形の平和な希望があったように思い出されます。
 其の頃だったろうか? 講堂が出来たのも嬉しかったな。教室を四つブッ通して鰻のように長い劇場で学芸会。某氏の子供さんが主演で浦島太郎他何名とか、プログラムを刷り誰が乙姫さんにとかでしたが、昨今では学習発表会と変わり全員が参加するようになりました。変らないのは校庭の松の緑。
 ハナ・ハト・マメ・マス国定教科書巻一より、大日本・大日本‥我等みすじの天皇陛下‥今は拡大鏡にても見当らない。
 日の丸弁当がいつしか少しずつ目を楽しませる配色豊かな愛の弁当が、給食と名付けて対等にコッペパン、此れまた校史の一頁を飾るものあろう。給食は続けるべきであり、保健体育面からみても、食生活の面からみても次代を負う子供等としての第一条件であり、賛意を表したい。
 国の祝祭日は延々列を作り伊加留賀神社へも参拝。また今日は早起き会とか神社仏閣の参拝清掃、心の和む楽しい数々。
 私らが、此の世に生まれたのが大正の初期、今は早や昭和も三十九年、いつしか子の親になり専ら大きな顔をしているが。郷土の流れる先輩よりの無形の血液・教訓・此の母校・此の学校あっての今日があると信じています。
 何んと申しても、今は故人森英太郎校長の指導により農業・職業学科・鍬とタンゴをかついでの生産学習も楽しかったな。卒業記念にと校門の両側道南北土堤に、桜と楓の苗木を植えたことほ、子供心にも此れが大きくなったらと、友たちみんな歴史の人として、可愛がって水もやったが、此の門の両側のみこそ、三十余年を一歩も動かず校史を見て来た、私らの代表として、其の偉観はまだまだ遠く永く後世に伝えてくれることでしょう。「年月めぐりて今ここに、卒業證書を送る身ぞ」と歌ってくれれば、「我等は此れより、いや深き学びの道や業を務め励みて」等、涙のつきぬ紋付き袴の女生徒にも、今もって其の姿が脳裏に残っています。
 校史の一頁を作った級友が、二十余年間規約を守り友情と信頼の中に同級会を続けている事を紹介し、卒業時指導名付け親先生も歴史を作った恩師の一人、其の名は稲垣秀一先生。級会こそ「むつみ会」。
 最後にむつみ会一同、紙面を拝して昔日の諸先生を思い出し、一人一人に厚くお礼申します。

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当時を懐古して              藤井 伊太郎

 羽津の小学校に講堂が新築されたのは、昭和四年か五年頃か定かではないが、子供心に非常に嬉しい出来事であったことは記憶している。それまで、コの字型の校舎に渡り廊下が伸びて、西側に立派な建て物が出来た。当時の子供たちは、男生徒は申し合わせたように、絣のツツ袖を着て、右の袖口が鼻紙のかわりになって、ピカピカ光っていた。彼らの目にも講堂は威厳があり、まさに堂々と見えた。内部の右には、台の上に村の某氏の寄贈によるグランドピアノが豪華にすわって、正面には、薄い絹の白幕がかかっていて、ご真影を拝する事が出来た。私は黒くピカピカするピアノの三本足にソーッとさわって見たい衝動にかられた事を覚えている。
 講堂が新築されるまでは、いろいろの催し物や儀式や学芸会は、南側の高学年の教室を仕切ってある大戸をはずして、講堂に早変わりをさせて使った。
 式の時に今でも記憶に残っていることは、校長先生の強度の近眼鏡がキラリと光り、教育勅語を拝読される時の‥白い手袋が、妙に印象に残っている。女の先生が横を通られる時のお白粉の匂いを「エーかざがするなあ。」と鼻を動かせた事など、昨日のように思い出されると共に、校長先生の教育勅語を拝聴して一斉に鼻をすすった級友の大半は、大陸で、南の孤島で、また海の上で散っていった。
 次代を信じてか?
 大きく移り変った思想を予言して行っただろうか?
 私は幸いにして生き残って来た。母校の九十年の歴史も見ることもできる。我々は教育勅語の本分で教育され、軍国主義に突入していったことは事実である。だが、あの教育法が全面的に否定することが出来るだろうか。私は現在の教育方法に一抹の不安と、猜疑を持たざるを得ません。

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思い出の数々            森 良治・森 ひな子
                     その他有志による

 今から三十年程前の思い出です。
 正門を入るとコの字形の校舎の北の東はしが裁縫室となりその前に大きなそてつの木があり、女子青年のお針子さんがつかったおれ針がいっぱいささっていました。子供心にもそてつと針の関係をふしぎに思ったものです。
 そのとなりには大きな桜の木があり入学した一年生は、必ずその前で記念さつ影をしたものです。男の子はかすり、女の子はニコニコといわれる木綿の着物に下駄やゴムぐつをはいておりました。
 正門をはいると奉安殿に対して最徹礼をするのです。南をむいて正しく頭をさげるのでした。
 正面玄関を右の方にすすみますと小使室に通ずる道、左に進みますとうすぐらい気味の悪い便所でした。玄関を入ると左側が校長室、右側が理科室で広い廊下(今の講堂の正面玄関椅子置物)が講堂につづいておりました。その十字路の北かどに鐘がぶらさがり、始業終業の合図を小使のおばさんが力いっぱいうつのでした。その広い廊下の両側には剥製のきじや、はにわが、戸棚にならべられてありました。今の公民館の使用しているへやが図書室で立派な本がたくさんならんでいたのを思い出します。講堂入口には、「忠孝」と書いた額がかかげられ、いつも私達をみ守っていました。
 南校舎の教室は小さいくぐり戸で二つの教室がつながっておりました。私達はくぐり戸からとなりの教室の女の子によくいたずらをしたものです。廊下をぬか袋でみがいたり、ときにはろうをぬり、つるつるにしてよろこんだものでした。
 行事として思い出されるのは秋祭につづいて行なわれた秋季大運動会‥‥北運動場で行なわれました。又春には霞ケ浦競輪場の南方海蔵川下の砂浜で運動会が行なわれ砂に足をとられながら力走したものでした。
 又講堂での新年拝賀式、紀元節、明治節など敬虔な気持で式をしたものでした。あずき色のはかまに黒もんつき、先生も生徒も晴れ着をきて参列したものです。教育勅語を読まれる校長先生のまっ白の手袋がすごく印象的でした。帰りには扇形のパンをいただいて帰りました。
 田舎にしては校舎も立派で教育も熱心だったように思われます。朝会には本の朗読会、綴り方、歌などの発表会もあり、月一ぺんの比較しけんというものがありました。特に習字が盛んで小林先生に特別指導していただいた生徒が展覧会に出品したりいたしました。
 夏休みには校庭でラジオ体操がありました。あんどんまつりも盛んで、夏の夜、校庭いっぱいおもいおもいの絵を書いたあんどんがつりさげられ夏の夜を色どったものです。
 初夏の頃、かりとられた麦わらでいろいろなものをつくり、麦わら細工の作品展も行なわれました。物のない時代なので廃物利用の作品コンクールも講堂でひらかれました。
 いろいろ想い出すままに書きとめてまいりましたが、今さらのように母校の歴史の古さに驚きほこりを持ちました。今後の発展を祈ってやみません。

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一本の松の木が思う           八田町 田中 万吉

 私は志?が野の一角皆様方の母校である羽津小学校の門前に植えられたる一本の松の木です。私はここへ植えられたという運命を心から喜んでおります。此の土地こそどんな風水害にもおかされる事もなく、安心して大地に根をのばし幹を枝を大空へとのばして来ましてより九十年、此の間三月ともなれば、学校を巣立って行く子供等、四月になればおかあさんに手をつながれて登校して来る幼い子供等、此のようなる事柄はいつ果てるともなく永遠に続いて行く事でありましょう。過ぎ去りし昔をふり返って見ますれば学校の出来た当時は生徒も少なく、学校にこられると言う事が誇りに感じられた時代であります。そして大正時代にはいりますや経済の変化と言うよりも当時の名校長○○先生の感化によって海外雄飛の夢をいだき学校を巣立つと共に大志を米大陸に求めて行った人々もあります。時代の流れと共に昭和の御代に入るや軍国主義の台頭となり、学校教育も厳格となり、体操の時間などには私の幹にくくられる子供等もあったりして、私にも手があったらと思った事も多々ありました。しかしながら思想の流れに抗すべきもなく昭和十年代をすぎるや軍国主義は益々花やかになり、支那事変の勃発となり父を兄を戦場へと送り、国の守り神、兵隊さんの武運を、お祈りするのは僕ら私らの務めと暑い日、寒い日小さな両手を合わせ鎮守の森へ参詣する子供らは列をつくった時代もあります。
 しかし戦争の激化と共に学校教育も戦争へとつながり、若い命を国難に殉じようと学校を卒業と共に軍隊へ身を投じて行った少年の群もありました。が、戦い我が国に利あらず昭和二十年八月を境にして、時代は大回転を遂げ学校教育も自由(個人)思想の流れに流されて環境の変化、設備は良化されましたが、子供たちは毎日毎日むつかしい勉強をしいられ、試験々々の連続でこれが現代に生きゆく競争の為とは言え、何かが欠けているように感じられますのは私のみでありましょうか。いつの時代でもそうでありますが小学校の教育こそは、人間の運命をも変える重大な場でありますので、世の人々は学校への関心を一層高められ、九十年の歴史に輝く羽津小学校の校舎を設備を内容を四日市一番いや日本一良い学校になる日を夢見るのは言葉の言えない松の木の私だけでありましょうか?。

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☆二宮翁像の建立由来

 校誌編集にあたって、古文書などをあさっていたら、昭和十一年九月二十九日付の勢州新聞を発見した。その第三面に
 「報恩の念に燃え 二宮翁像建設 三重郡羽津村に輝く美談」
の見出しと七段抜きのスペースで報道されている。
 その概要は、子女教育報恩のためと、児童の教育振興上から、梅本金一・服部清太郎両氏は決然起って建設することとなり、工費三百余円を投じて、校庭の一偶に着工。この程その完成をみ、いよいよ本日の佳き日に除幕式を挙行することになった。
 この紙面を見て、私たちは二宮翁像建立の意義を再認識すると共に、先人の偉業をここに感謝したいと思うわけです。

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◆昭和十二年から同二十年まで

 昭和十六年から、わが国の教育はかわった方策で営まれるようになりました。同十二年の支那事変を機として、それが著しく変わるようになりました。
 同十五年からは大きな戦争の準備がすすめられるようになり、同十六年十二月からの太平洋戦争は急速に戦時の教育体制をとることを要請されたので情勢は変わってきました。
 さらに同十八年からは決戦体制をとることが必須であるので、教育全体が非常時に備えることになりました。殊に戦争が激烈となり本士の近くに迫ると共に、戦時教育令が公布され、教育はほとんど停止されるという措置がとられるまでになりました。
 教育審議会は昭和十二年十二月に設けられ、支那事変後におけるわが国の諸要請を教育の上に反映させたことにおいて大きな役割りを果していたのであります。この審議会において決定された改革の方策は教育制度の上に実施されたのであります。そうしてこの会が改革の焦点としたところは、当時の基本構成はそのままにして、その中で皇国民を育成する教育の精神とその実態をどのように確立するかということを審議して教育政策の成果をあげようとしたのでありました。
 昭和十六年三月小学校令ならびに同施行規則を改正して国民学校令ならびに同施行規則が公布され同年四月一日から実施されることになりました。
 国民学校の目的は「皇国の道に則って初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為すを目的とする」のでありまして、教育の全般にわたって皇国の道を修練することであります。
 制度上では、
 1.義務教育を八年に延長されたこと。
 2.国民学校の過程を初等科六年、高等科二年としたこと。
 3.高等科を修了した者のために修業年限一年の特修科を解くこと。
 4.就学義務徹底を図ること。
 5.国民学校職員の待遇を改善することなど。
であります。
 内容上においては、皇国の道に則っとる国民の基礎的錬成は数科を通しての教育によって行われるべきのたてまえから、小学校の教科として初等科には国民科・理数科・体錬科・芸能科とし、高等科にはその他に実業科を設定したのであります。そうしてそのすべての教科は、国民錬成の一途に帰せしめられたのであります。
 教育の方法として刷新強化された主な点は、
 l.主知的な教授を排し、国民として統一的人格の育成を期すること。
 2.儀式や学校行事を重んじ全校をあげて国民錬成の道場にしようとしたこと。
 3.学校、家庭、社会の連絡を緊密にし児童の教育を全うしようとしたことであります。
 この国民学校が発足した年の十二月に太平洋戦争がおこって錬成の教育は、-層強化されたのでありました。

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母の国              昭和二十五年卒業 伊藤 弥

 母校を出て早や十四年になろうか。思うと歳月のたつのは早いもの、まさしく歳月は人を待たず。
 自分は一体何を学び、何を務めとして今日まで生きてきたのかと恥じるのである。学校で学んだ算数は一+一は二の答えが正確だった。
 しかし社会でほ一+一は二Ⅹのようだ。そこに私は人生の未知数をかすかに覚えた。馬鹿正直では世の中は通らないということだった。
 脳の弱い自分は学校で何を学んだのか。知識と知恵、どれ程頭の中に残っていようか。ただ先生のおもかげとでもいうのか自分は一年から三年まで女の先生ばかりだったためか、やさしくいたわってくださった事が心にしみている。それは母性愛とでもいえようか。
 一年生の時の大戦と終戦、行ったり来たり随分駆け回ったことだ。その時は何を考えていた事だろう。無邪気のままに時代の波に揺られていたのだろう。終戦になってアメリカから給食にミルクやチョコレートをもらって、負けて良かったと喜んでいたのだろう。
 敗戦したなればこそ今日の日本が再建され、自由・平等の世の中になってきたのだと思う。時代の流れはだんだん速く、スピード時代になってきた。ボケボケしていると、取り残されていきそうな気がする。
 終戦後どんどん西洋文明が発達して、生活が豊かになり、生活様式が変わり、とても便利になって有難い事である。西洋の動的文化は、人生の憧れであろうか。また反面、東洋の静的文化も人生の欠くべからざるものである。昨今、東西両文化が進展したとはいえ、現代に生きる自分たちは何かが欠けてはいないだろうか。
 東西の谷間である日本は全てのものが相交わり、よく調和を保つ大和の国のようだ。
 今秋は世界は一つという念願のもとに、世界オリンピックが東京で開かれようとして、聖火もすぐそこに来ているようだ。聖火こそ母校愛の象徴ではないだろうか。真のスポーツ精神は、そこに秘められているのではないか。
 全人類が一丸と、一点に帰する所にこそ其の姿があり、また人間性のあり方を示した唯一の大神様の御心があり、そして自分たちの一人一人の求めている限りない愛のふれあいではないだろうか。
 いずれ世界平和が母国日本で結ばれる事を信じて祈る者である。
 「志氏ケ野に生きて死にたや母の国」母校創立九十周年記念目出度けれ。

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強く生き抜いて        山手中学校同窓会会長 森 国夫
                      昭和二十年三月卒

 さっと吹く秋風に向って、手を休め赤トンボにたわむれながら、身体をいやすひととき、何となく自分に満足感を与えられるような気がいたします。そう言えるのも、自分という人間性を一限度において生長させられた学校教育である事を、つい思いたくなるのは当然のようでもあるが、今日の生活の中では仕事やら、何やらでつい忘れがちになるのも、教育・勉強・研究‥‥であるような気もいたします。
 一人で通学出来るものでなく、ただ友だちと通い続けた小学生時は、今日の自分という人間を大きく造り上げられたように思われます。
 校門を入り右に向って奉安殿に一礼、そのことを忘れて上級生や先生に強く叱られ、大きな手でなぐられ涙ぐんだのは私ばかりではありませんでした。そうして二年「大東亜戦争」米英の大国を向うに回しての戦い、地区の方々の戦争への参画。授業をとりやめて「出征兵士を送る歌」のメロディーにのせて、手に手に小旗。朝に夕に「武運長久」の、のぼり旗をかさし志?神社に日参団、戦地の方々へ図画作文の慰問袋等、下手な者は、いやというほどよく書かされたものです。
 家に帰れば兵隊ゴッコの遊び、田に畑に出て上級生の指揮で敵前上陸、こういった事もお国の為、兵隊さんを思えば‥‥食料の増産で当時の校庭を全部畑にし、甘藷・馬鈴薯・南瓜・大豆等を植えたので、満足に運動も出来ないありさまで、体育の時間など山手に向って駈け足ばかりでした。
 今のように給食はおろか、毎日毎日いも弁当が普通で、家に走っていっておかゆをすすりに行く日すらありました。食べ物・着る物など何一つ買う自由もなく、ただ配給の日を待ち続けるばかりで、お菓子などとても口には縁遠い品物で、そのせいか今日になっても自分が人以上にいやしさを身につけているような気がいたします。
 戦争も一層の激しさを加え、時には授業中でもサイレンの音が聞こえる日さえありました。そして遂に四日市の大空襲。本・ノート等学用品を手製リュックにつめ、夜中に山や畑を逃げ回って、遠くで市内の炎や煙を背にしながら不気味な音をただ聞くばかりでした。それから爆音で夜も身体を休める事が出来ず、電燈に黒い布をかけて暗くしたあかりの下で、ゴロ寝をした夜が幾日も続きました。B二十九、この飛行機はもうまっぴらです。竹槍とか、バケツリレーも皆一生懸命でした。
 教育的に最も必要な読み・書き・数える知性は、どの年代の人々より乏しい事は確かなようで、今日になってももう一度学校に行きたいという向学心、野心は私一人ではないような気がいたします。  何でもない事のように思えますが、今日までの人生教育を忘れる事が出来ない一端にすぎません。

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◆昭和二十年八月より

 昭和二十年八月の終戦は、わが国に未曽有の変化をおこしました。敗戦に続いて占領、外地における活動の停止などは、教育についてもはなはだしい変動を与えました。その中でも戦時教育休制が終止符をうち、わが国の教育は占領軍によって管理されることになりました。その後七年にわたり占領が解かれるまで行われたのであります。
 総司令部内に民間情報教育部が設けられ、ここで教育の基本となる方策が指導されることになりました。文部省では、民主社会をつくるという新しい教育を行うために「新教育の指針」という小冊子を全国に配布いたしました。そこで全国の学校もしだいに秩序も回復して、この新しい教育体制をつくるようになりました。
 昭和二十一年三月アメリカ教育使節団が到着して、日本側の委員に迎えられ一か月にわたる視察と会議とで報告書を作成して、司令部に提出しました。司令部ではこれを公表して戦後のわが国の教育を改革する根本指針としたのであります。
 同年八月文部省は教育刷新委員会(後に教育刷新審議会と改称)を設けて総司令部と密接な連関を保って、教育の改革のために基本方針や具体的な方策を決定したのであります。この委員会が任務を完了するまでの間に、戦時教育体制は全く切り換えられ民主社会形成のための教育方策が展開されることになったのであります。
 昭和二十二年三月わが国の教育基本法と、学校教育法が国会において審議せられ、法律として公布されたのであります。またこの法令と前後して文部省から「学習指導要領」一般編と各教科編とが配布されました。これが新しい教育課程の基準として重要な役割りを果すことになりました。
 先ず学校の新しい制度として六・三制であります。初等教育としての小学校が六か年、中等教育を上・下にわけて中学校が三か年、高等学校が三か年、その上に高等教育として大学校を四か年とする学校の基本を定め、そのうち小学校と中学校合わせて九か年を義務制としたのであります。なお同年四月から中学校の義務制が実施せられることになりました。
 また小学校の教科の基準は、国語・社会・算数・理科・音楽・図画・工作・家庭・体育および自由研究と定められました。ここで従来の修身・公民・国史・地理という科目がなくなり、新しく社会科と家庭科と自由研究が教科として加えられたのであります。全体に自由主義による指導法が重視され、新しい観点・角度から学習の効果を評価することになりました。
 特に学校文庫や視聴覚の教具が導入されて、児童の自律活動が促進されることに大きな力となりました。また学校給食も戦後における児童の保健上から促進された新しい学校経営の一つとして大きく注目されるようになったのであります。
 また従来の教科用書は国定でありました。それを改めて検定制度にし、民間において編集し刊行する制度に改められ、各学校はこれら検定教科書の中から適当なものを選んで使用することになりました。
 教育行政については、文部省を中心とする従来の制度が改められて、昭和二十三年に教育委員会法が制定され、都道府県には教育委員会が設けられた。
 昭和二十七年から全国市町村のすべてには地方教育委員会が設けられた。教育委員会は府県では七人、市町村では五人の委員で組織され、教育委員会には事務局がおかれ、教育長や指導主事などの職員がおかれた。
 教育委員は、最初は自治体の住民の直接公選によったが昭和三十一年六月地方教育制度組織及び運営に関する法律が公布せられてからは、公選委員を廃止して市町村長の任命となった。
 最後に特筆大書すべきことは、学校と緊密な関連において発展しつつあるP・T・Aは全国的に多数の会員を擁する組織となり、社会教育の機能を大きく果すものとなりました。

 校種 小学校 中学校 高等学校 短期大学    
大学
 学年  1  2  3  4  5  6  1  2  3  1  2  3  1  2  3  4

 

☆学校の再配置

 昭和二十年八月の終戦によって、戦時教育体制は停止となり、学校の再配置が行われました。同二十二年四月に学制が改革になり、当校は四日市市立羽津小学校と改称されたので、高等科は廃止となり高等科児童は新制の山手中学校に編入せられました。同二十三年五月進駐軍の学校管理政策によって四日市市立羽津小学校は廃止され、同校の校舎は山手中学校として開校されることになりました。
 そこで羽津小学校の児童の大部分は、山手小学校と改称された海蔵小学校に通学することになりました。特に通学距離の遠い霞が浦・白須賀・八田・鵤・別名町の一、二年の児童だけが、元の羽津小学校を山手小学校の分校として、ここで学習が続けられるようになりました。
 翌二十四年七月に山手中学校山校舎が現在の地に、元羽津小学校の旧校舎の一部を移転改築して授業が開始されました。
 昭和二十四年七月二十四日、四日市羽津小学校は復活し、元羽津小学校の児童は旧校舎に復帰することになりました。


☆校舎の増築

 昭和二十五年九月、児童激増のために第三校舎が新築になって、この校舎の中に給食室(二十七坪)が完成され、学校給食が完全に実施されるようになりました。
 さらに同二十七年九月に第三校舎の西側に一教室が増築されましたが昭和四日市石油会社の社宅か垂坂山麓一帯に建設されて、ここに緑ヶ丘町の出現によりこれらの住宅から社員の子弟が多数就学することになりましたので、さらに校舎の増設が肝要となりました。
 そのころ四日市は、戦災復興の計画が実施中で、焼失学校の復興学校改築十か年計画が樹立され、これが強行中であった為に、校舎の増設運動を起してみましたが、なかなか成功の見通しもつかず、加えて土地の買収が殊に至難となり、将来の発展を予測するために単価も急騰して交渉すこぶる困難となりました。自来校舎増築運動は年々熱誠を帯びたので昭和三十二年十二月の市会において可決せられることになりました。


☆奉安殿

 明治三十七年四月羽津小学校が現在の所に移転攻築になりました当時、ご真影は職員室の出に奉安されておりましたが、その後に富永・味香両氏の寄付で、倉庫型の奉安殿が校門を入った左方に建てられました。それからは職員も児童も必ず最敬礼して通ることになっていました。
 昭和四年に講堂が建立されましてからは、その南側の西方に移転になりましたが、昭和十二年の頃清水両家の寄付で校門を入った右側南東に鉄筋建神明造りの奉安殿が新築になりました。その敷地は東西五間、南北七間でその中央に二坪の奉安殿が石積みの上に安置され、まことに神々しい様式でした。校門を出入りするたびに私どもはよく敬礼したことを記憶しております。
 この尊い建て物も終戦後その筋の命によりまして、解体するの止むなきにいたりましたことは惜しいことでありました。

☆集団赤痢

 昭和三十七年二月四日全国学校給食記念周間行事として、編笠餅と密柑を全児童に与えたところ、その編笠餅に赤痢菌が混入していたために、十五日夕方より発病児童が多く続出し、十六日には二百十名の欠席を出すこととなりました。
 その頃東京を中心として全国に集団感冒が流行中でありましたので、欠席児童はこの感冒と判断いたし休校することにいたしました。
 十八日午前十時各児童の検便の結果、ゾンネD型による集団赤痢と判明し、児童は五百一名、一般患者二百八十名の驚くべき多数となり、わが地区末曽有の不祥事となりました。
 入院先は四日市市立病院・羽津病院・森病院・富田浜病院・飯田病院・中根病院・塩浜病院・鈴鹿国立病院・鈴鹿日赤病院・菰野厚生病院のほかに羽津小学校臨時隔離病舎・富士電診療所・昭石集会所等を利用して収容し、羽津地区自治会・婦人会・P・T・A等の献身的努力によって漸次患者は減少いたしました。
 三月十二日に授業を開始いたしましたが、なお欠席児童も多数ありました。十五日になって集団赤痢も終息して正常授業を開始することになりました。しかし給食だけは一時中止することになりました。
 二十六日に卒業式を挙行することになりましたものの、集団発病のため久しく休校いたしました関係で月末まで補習授業を続けることとなりました。
 かかる大事が起りましたが、地区民の方々がよく命令、指令の趣旨を理解し、衛生に専念せられた結果、かかる短期間に全く終息したことは不幸中の幸でありました


☆伊勢湾台風の思い出

 伊勢湾台風の夜、はからずも当直になった。電燈、電話は五時に切れて、無気味な風の音と吹きつける雨に不安な時を過ごした。午後八時頃風雨は一層強くなり、大音響と共に講堂の天井が落ちた。外はザラ板が飛び、瓦が飛び危険で歩けない。
 そのうち羽津北町・白須賀町の人たちが三百人ぐらい避難して来た。講堂に入っていたら、どんな怪我人が出たかと今考えてもゾッとします。避難した人の中には怪我をして来る人もかなりいた。当直室は雨もりで使えず、ぬれた畳の上で介抱をしてあげた。
 十一時頃やっと風雨もおさまったが、海岸近くの霞が浦・白須質の被害がひどいと聞き、児童の安全をただ祈るのみであった。私も小林さんと雨戸に板をうちつけたり、畳をあげたり必死に台風と斗った。学校も講堂を始め製陶室の全壊、窓ガラスの破壊など台風の恐ろしさを物語っていた。
 東の空が明るくなった五時頃、避難の人も引揚げ始めたが、日直の先生が来ないまま、どこへも連絡がとれず一人で途方にくれた。でも児童の中で一人の怪我人も出なかったことを聞き、不幸中の幸いで安堵の胸を撫でおろしました。
 復興なった学校を見るにつけ、あの恐ろしい伊勢湾台風の夜を思い出しては、今年も台風が来ないようにと祈っています。


統計

 年度  学級数    1年  2年  3年  4年  5年  6年  計  男女計
 20  12  男  57  45  37  38  48  36  261  553
 女  64  46  43  53  47  39  292
 21  12  男  67  57  59  54  56  61  354  730
 女  65  64  64  56  66  61  376
 22  12  男  61  58  50  54  50  53  326  681
 女  65  58  59  59  51  63  355
 23  昭23.5羽津小学校廃止に伴い山手小学校(現海蔵小学校)に通学したため書類現存せず
 24  16  男  59  66  59  53  42  51  330  657
 女  61  53  60  49  52  52  327
 25  16  男  61  58  67  60  52  45  343  694
 女  66  64  55  61  51  54  351
 26  17  男  60  62  59  67  63  51  362  726
 女  68  68  62  53  61  52  364
 27  17  男  35  59  64  58  66  67  349  689
 女  29  66  69  64  52  60  340
 28  17  男  62  34  61  60  62  67  346  687
 女  62  31  68  67  62  51  342
 29  17  男  76  62  38  59  69  61  355  730
 女  85  59  32  66  70  63  375
 30  17  男  78  76  63  39  62  53  371  738
 女  56  84  59  33  65  70  367
 31  17  男  77  79  77  65  40  63  401  775
 女  75  54  84  60  35  66  374
 32  18  男  60  89  86  79  63  41  418  818
 女  65  79  65  51  64  36  400
 33  18  男  46  62  94  85  80  64  438  857
 女  55  67  77  69  92  66  426
 34  18  男  51  49  62  89  83  75  409  817
 女  52  56  65  77  70  88  408
 35  16  男  54  53  49  64  88  88   396  772
 女  52  56  54  66  78  70  376
 36  16  男  65  52  56  44  66  91  374  735
 女  49  52  54  58  67  81  361
 37  16  男  63  70  56  55  46  67  357  689
 女  51  48  49  56  61  67  332
 38  18  男  59  70  71  62  60  50  372  710
 女  62  51  51  52  56  66  338
 39  19  男  70  60  74  71  59  62  396  747
 女  77  62  51  49  56  56  351

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新卒の想い出                    旧職員 稲垣 秀一

 大正八年四月、私は師範字校を卒業して、すぐ羽津尋常高等小学校訓導を拝命した。月俸弐拾壱円である。六年生男女六十六人の大組の担任-″校内きっての腕白組、ガラクタ組だからシッカリ頼む″と首席訓導から内命を受け、“これはえらい組に当たった”と思った。しかし新卒で張り切っている事とて期待にそむかぬよう、毎日厳格に、几帳面に、グングンやったが子供はついて来ない。やればやるほどますます子供ははなれていく。毎日の授業も訓練も思うようにならず、毎日の生活も面白くなく、悶々の日を送っていた。
 七月十日、私は六週間現役兵として守山連隊に入営、子供からはなれてホッとした。或る日六年生を代表して級長から手紙が届けられた。“私たちは先生が行かれてから毎日ままこあつかいでいろいろの先生にかわりばんこで教えて貰っています。そして毎日叱られてばかりいて面白くありません。先生早く帰って来て教えて下さい。これからはみんなおとなしくして先生のいいつけをよく守ってよい生徒になりますから”という意味の手紙であつた。純真な子供の心にうたれ、私はうれし泣きに泣いたことをおぼえている。
 第二学期がはじまった。私も軍隊生活で心境の変化を来たし、明るくなっていた。毎日子供と共に遊び運動をした。日曜日は子供をつれてハイキングに出かけるなど子供とシックリして毎日の授業も面白くなった。
 十月十八日の運動会に六男は変足競争というかわった団体競技をやった。森君・今野君の倒立競争は満場の喝采を博した。 三月の学芸会には“卒業∽想い出”と題して全員出演、子供たちは張り切って熱演した。こうして子供たちは私にはなくてはならぬ存在となり、校長に頼んで高一担任として持ち上がることになった。私は嬉しくて春休みも学級経営の計画に専念して張り切っていた。
 四月四日、出勤すると校長に呼ばれ、“加藤君辞令が来ました。朝日学校へ行って貰わにゃならぬ。”私はガクゼンとした。当時は至上命令である。一片の辞令で可愛いい子供を残して行かねばならぬ。教室の隅で教え児と共に手をとり合って別れを惜んで泣いた。
 これは四十六年前の大昔の話である。当時の可愛いかった教え児も今はもう五十七八才、よいおじいさん、よいおばあさんになっている事であろう。私も六十六のおじいさんである。
 昭和六年四月私は首席訓導として再び羽津小学校へ赴任した。森、鈴木両校長につかえたが学級担任をしての首席事務-ホントに毎日多忙々々の日暮らしであつた。
 昭和十一年四月、新米校長として三重学校へ赴任したが羽津学校は二度の勤め、いろいろ想い出の多いなつかしい学校である。

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羽津の思い出                旧職員 小山 佐次郎

 私は昭和七年の四月、鵜川原小学校から羽津小学校へ転勤になり、五年の後(昭和十二年)三重小学校へかわりました。鵜川原の十四年、三重の十九年にくらべて羽津ではたった五年間でしたが、一番思い出の深いところでした。年令からいっても一番ハッスルのきく年代で ガムシャラに思う存分、向こう見ずにふるまえたのは、責任のない中堅どころの椅子にあったせいでしょう。
 羽津に赴任した当時の校長は故森英太郎先生で、途中故鈴木準吉先生にかわりましたが、時代もそういう時代であったとはいえ、お二方ともワンマン校長で、よく叱られたことも忘れられない思い出の一つです。主席訓導(教頭)が稲垣秀一先生で不思議と、この稲垣先生は、私の鵜川原、羽津、三重と、教職の生涯をかけてお世話になった因縁の深い先生です。校舎はもうすっかり私のいた頃の面影はなく、今何かの機会にお邪魔するようなことがあっても恐らくその頃の思い出の種になるようなものはないだろうと思います。同僚も五年間には随分出入りがあり、誰れ彼れと思い出の糸を手繰ってみると、案外他界した人が多く、中でも将来を嘱望された有為の人物がようせつしています。まあそういった人達は短い人生を無駄なく有意義に過ごしているので、私のようなグウタラで怠慢で無能な男は生き残ってヨタヨタ余生を送っているのです。  私は五年間に三クラス受け持ちました。第一回は昭和九年尋常科卒業の組、第二回は昭和十一年同じく尋常科卒業の組、そして三回目に昭和十一年入学の一年生を一年間お世話しました。一年生を持ったのは後にも先きにもあの時一回きりで、随分てこずったことを覚えています。この一年生の教え子は、あるいはまぬがれた事と思いますが、はじめのふた組の教え子は、丁度年令が戦争に狩り出される当りくじに当っていて、随分たくさんの戦死者を出しています。
 そう言えば私の羽津時代には、もう軍国主義的な教育に入っていて、「流汗鍛錬」「国体明徴」などという言葉が流行し、教職員の錬成がこっぴどく強行されたものです。そのあおりが子供達にも及んで、「早起き会」という行事が月二回、一日と十五日にありました)未明に起きて校庭に集合、愚にもつかぬ呪文(すっかり忘れてしまったが)を唱えてから、体操だ、駆け足だと、いたいけな子供達を引きずり回した事を覚えています。その日は教室で一日、教師も子供もあくびの連発でした。質実剛健な非常時勢の教育に、「教帥の長髪はまかりならぬ。丸坊主になれ。」と校長から強制されたのもその頃です。
 そうかと思うと、案外のんびりした年中行事もありました。「春の運動会」と称して、海岸―霞ケ浦と午起の中間の砂浜―で、しごく悠長な、運動会とは名ばかりの一日の清遊がありました。屋台車を押して、串団子屋が店を出し、焼きたての匂いに鼻をくすぐられた記憶も忘れられません。
 さて、思い出は尽きませんが、当時の校長さん、助役さん、その他村会議員や区長の皆さんも、中には他界された方もあると思います。何しろPTA会長さんの大野君が私の教え子であることから推して考えても、今さら私自身の老いさらばえた姿と、三十何年の時勢の変動に感慨深いものを感じます。

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日支事変より大東亜戦争へ         旧職員 田中 正次郎

 私が三重小学校より羽津小学校へ転任したのは昭和十三年四月であった。今から二十六年前になる。当時羽津はまだ四日市ではなかった。
 それから昭和十七年三月までまる四年間勤務した。
 そのころは日支事変の泥沼の中に、足を踏みこんで、にっちもさっちも行かない状態の時であった。しかし表面は戦果あいつぐ戦勝気分によっている時であつた。
 この稿を書くため、私は羽津勤務四年間の日記を一通り読んでみた。
 私が羽津小学校へ赴任した時は除洲作戦の前しょう戦たけなわの時であった。世紀の大包囲作戦で、その戦況や戦果が毎日の日記に抜粋されて書かれている。
 当時は、毎日のように応召軍人が羽津駅から出発された。富永村長さんのしずかな歓送の辞、梅本助役さんの元気のよい激励の辞が印象深い。最後につたない私の音頭で「太平洋行進曲」を歌ったものだった。
 戦場はますます拡大し、七月には「オリンピック東京大会」の中止決定が発表された。ことしの「東京オリンピック大会」の開催を思うと感慨ぶかいものがある。
 その十月に武漢三鎮攻略、果てしなく事変は拡大して行った。その当時から私が去る十七年三月まで羽津小学校もまったく戦時体制へと突入していった。
 毎日国旗は掲揚され、皇居、神宮ようはいが行なわれた。防空演習も行なわれるようになってきた。
 毎月一日、十九日には暁天動員といって、垂坂山、霞ヶ浦へ全児童が集まって、日の出を拝み、聖寿の万才を唱えたものだった。
 昭和十六年十二月八日、大東亜戦争ぼっ発、二月十一日には「シンガポール陥落」祝酒の特配があった。職員打ち連れて垂坂山に登り、大いに時局を論じたことだった。
 その三月、職員は南紀旅行に出かけた。汽車はところどころよろい戸をおろされて、窓を見ることか許されなかつた。新宮の白浜に泊まり、大阪まわりで帰って来た。旅費は約三十円であった。
 帰ると私は四日市市第八国民学校へ転任になっていた。今のように転任の内示もなく、異議の申し立てもない時代であった。
 第八国民学校(今の東橋北小学校)の二階から羽津小学校の森がよく見えた。私はよくそこから、羽津小学校を見ては、なつかしかった四年問の星霜をふり返って、涙ぐんだことであった。
 あの当時の児童はもう四十近い。皆元気であってくれればよいがと祈っている。

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過渡期の教師として                 旧職員 伊藤 きん

 羽津小学校での思い出といえば、何といっても戦時中の思い出です。それは大東亜戦争勃発と同じ昭和十六年より終戦後の二十二年迄の六ケ年間勤務させていただいたためでございましょう。
 最初の一、二年は新卒としてただ夢中に教壇に立ちましたが、日増しに戦争は激しくなり、学校の運動場は芋畑に変わり、大切な授業もさいて学校園(近鉄羽津駅北側)へ田の草取りに出かけました。
 現在では近代的なすばらしい電気工場となっているあの富士電へも高等科の女子を勤労動員としてよく引率していったものです。
 なお、運動は訓練的なものとなり伊藤信一先生の徹底したご指導のもとに真冬に裸で訓練をやったことや、とりわけ志?神社の境内で薙刀のけいこをしたことは、今もなお忘れることができません。原子爆弾を投下する程に科学の進歩したアメリカに比らべ、いくら大和撫子の意気をつけるためとはいえ、今考えると余りの相違に情なくふき出してしまいたくなる思いがいたします。でもあの頃真剣によくけいこしてくださった女子の皆さんは今はもうすっかりよいママさんになっておられることでしょう。
 出征兵士を見送りに日の丸の小旗を手に羽津駅へ見送りに行ったこと。夜の十時や十二時でも警報が出ると国道を自転車で学校まで駆け付けたこと。また女の先生でも二人ずつ宿直をやったこと。特に四日市が空襲にあった六月十八日は私たちも学校の防空壕に避難していたこと等、戦争にまつわる思い出は尽きません。絶対勝つまではと信じ込んでいた矢先き、終戦を迎えたあの八月十五日の思い出。それ以後の教帥の指導のむずかしさ。まさに百八十度の転換そのものでした。
 あれから二昔近くも過ぎ今日では東京オリンピックをニケ月後に迎えるまでに平和が甦り宇宙時代といわれる程に科学は進歩いたしました。
 しかしその陰に沖縄で戦死された有能な新卒教師の奥山先生が日の丸の旗をもって羽津の子等とやさしくほほえまれたお姿が、今もなお私のアルバムの一ページにあることを私は思い出さずにはおられません。
 戦争は遠い昔話としか知らない現代っ子にどうか二度とあのようないやな時代がこないよう、志?の宮のもとにますます平和で文化的な楽しい学び舎として、羽津の子等が一層元気一ばい幸せに勉強できますよう心よりお祈りいたします。

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陶芸教育の思い出                  旧職員 岸本 義香

 私が羽津小学校に赴任したのが、昭和二十一年十月、それ以来、学校を去るまで十数年羽津小学校での印象は陶芸教育であった。
 地区は万古業者が多く、また粘土も容易に入手出来るので是非この教育をやりたいと思った。そこでPTA会長さんや業者の方の協力を得て約二十坪ばかりの製陶研究室を作ってもらった。窯業試験場長さんの指導で夏休みを返上して楽焼窯を築いた。立派な錦窯であった。
 児童に作品を作らせては素焼きをやった。初めは水分があって、栗がはじけるようにわれてしまった。何度か失敗を重ねて絵付けをやり焼いて見たが、うまくとけなかった。パイロメーターを借りてきて、針とにらめっこをして薪を入れた。絵の具の作り直しをやったり窯の改造も何回も行なった。最初は煙突のない窯で煤煙の為、全身真っ黒になったことも数度あった。それでもどうにか出来るようにまでなったので、今度は全校児童に一作品ずつ作らせて焼いて見た。そして講堂で児童陶芸展を毎年開いて見た。子供でなければ出来ない作品、思いつき、一人一人のうれしそうな顔が今でも目に浮んで来ます。精魂こめて焼き上げる子供の真剣な姿こそ地区に生きる立派な社会人としての教育であったと思っています。何度も新聞で紹介された。また先生がたと一緒に全国の焼き物を研究しに出かけた。九谷焼、清水焼などは特に参考になった。地区の方も熱心に協力してくださってそのうち一角に本窯が築かれたが校舎建築の為、製陶室を移転することになり一度も火を入れなかったことは残念でした。製陶室を今のプランコの南に移した。そして窯も小さい乍らトンネル窯にした。もう今までのように真っ黒にならなくてもよいし、全校児童の作品も次々と焼き上がっていった。黄昏迫る頃余熱を利用して芋を焼き、頬を赤らめて食べたその味は今も懐しく思い出されます。またトンネル窯のそばにロクロを寄贈してくださった。これで、もっとよい作品が出来るぞと一同張切ったのも束の間、伊勢湾台風のため無残にも製陶室は全壊、窯もこわれてしまった。何とか再建してもう一度この喜びを子供に味わわせたいと願っている矢先転任になってしまった。後任の先生にお願いして陶芸展を開いてもらっている由、誠にうれしく思った。羽津で学んだこのことは西橋北小学校にもやりたいと思って小さい乍ら陶芸研究室を建ててもらって毎年焼いています。
 私の羽津生活の中で生涯忘れられない陶芸教育、子供と教師と一丸になって焼き上げたその感激、子供たちもー生忘れないことと思います。当時の作品を今眺めていると悲喜交々の思い出が私の胸中を走ります。再び立派な陶芸教育を復活していただくことを只管願ってペンを置きます。(元本校職員)

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東海理科研究発表会の思い出         旧職員 東 なみ江

 幼い日の学び舎に、はからずも教べんをとる身になって十三年の長い年月を、子供たちと一緒に楽しく毎日を過ごさせていただいた私にとっては、一生忘れる事の出来ないなつかしい学校です。私の教え児のなかに、子供を二人も三人も持っている人がいるのだから随分長い月日だったわけです。
 ふりかえってみますと、十三年の間には、いろいろな思い出がたくさんあります。なかでも格別忘れることの出来ないのは昭和二十七年の同月、東海理科研究発表会をした時の事です。県の研究発表会でもなかなか大変なのに、東海地方の理科研究の発表をするのだからそれは大変な事でした。
 山口校長を中心に全職員が研究の態勢をととのえました。当時のPTAの役員の万やおかあさん方も随分協力していただきました。自然観祭園(学校山)をつくったのは八月の休み中でした。やけつく様な炎天下をPTAの方々と土運びに汗を流しました。山を造り樹木を植え、噴水やダム、川の流れをつくり、回りに電車を走らせました。ひょうたん他には水草や水中生物も数多く入れました。学校山にはあらゆる雑草を植え、こけもつけました。ひょうたん池はなくなりましたが、学校山だけは今も昔の面影をとどめていると思います。
 発表のための印刷物をつくるのも大変でした。凍りつく様な冬の夜を、原紙きり、印刷、製本と手分けして夜の九時十時までうどん一杯で皆が頑張りました。雪あかりに家路へいそいだ幾日かが、今でも昨日のことの様に思い出されます。児童たちも特に理科の勉強は一生懸命でした。教師と児童と父兄の方々と一つになって頑張って東海理科の研究発表会を成功におわる事が出来ました。
 苦しかったけれど、あの一年は本当に生きがいのある年だったと今もなつかしく、その頃の仲間と児童たち、そして協力を惜しまなかったPTAの方々を思いだすのです。

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追憶                       梅林 智

 万葉の古歌に歌われている「志でが乃」のゆるやかに起伏する丘の中腹にそそり立つ羽津学校は、周囲のさくら、かえでや伊勢の海に点在する白帆をながめ、本当に恵まれたしあわせな学校と言えましょう。そしてこの学びやに共に学ぶ七百有余名の児童のしあわせはうらやましいかぎりです。
 私と羽津小学校の関係は、昭和二十三年四月、海蔵小学校に転任して間もない五月、六三制完全実施のため、羽津小学校に山手中学校を設置し、羽津海蔵の両小学校を統合して新しく山手小学校が、海蔵小学校を使用して誕生しました。従って羽津小学校の児童は、海蔵小学校まで通学しなければならないことになりました。通いなれた羽津学校を通り過ぎ、遠く海蔵小学校へ通学する児童の心中を察し、通学途上を案ずる父兄の声を聞きながら、いろいろな難問解決のために、PTA、地区出身市議、代表の方々に殆ど連日の如く夜おそくまで会合を重ね、御苦労をおかけしました。
 幾度かの話し合いの結果、海減地区より遠い鵤、別名、霞ヶ浦、白須賀の低学年児童は羽津小学校の講堂を使用して山手小学校分校とし、校長を中心に和の心で一致協力して教育に精進しました。案じた事もなく両校の児童も親しみ睦み合い、明るく強く勉学に励みました。
 翌昭和二十四年七月には山手中学校の独立校舎も完成し、羽津小学校は再び現在地に復帰しました。父兄児童の喜びがまざまざと思いうかべられます。こんなに早く復帰できた裏面にはPTAの方々はじめ地区民各位の教育愛にもえる熱心な協力と団結心による強い実践力がどんなに強く当局を動かしたことだったか、どうしても忘れることが出来ない出来ごとの一つであると思います。
 不思議なご緑で昭和二十九年四月羽津小学校に転任して御やっかいになりました。その頃四日市市は近代工業都市建設発展への途上にあり、昭和石油株式会社の誘致に伴い、垂坂山の麓緑ヶ丘に社宅団地が造成せられて児童も急増し、その対策として校舎の増築、敷地の拡張の問題が生じました。幸にして地区民、PTAの羽津地区発展の将来を見通しての御努力により、昭和二十三年六月、現在の第四校舎と管理とうが増築完成しました。
 ここにも将来への教育設計を念願される羽津地区民、PTAの御協力に頭のさがる思いがいたしました。

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思い出                    旧職員 伊藤 薫

 長い九十年の歴史の刻みの、その百分の一の僅かな歩みではあるが、小生の在勤(昭和三十八年四月から昭和三十九年三月)一か年、いろいろの意味で私の心の奥深く刻まれた羽津小学校を思うままに、筆をとってみました。
 先ず学校の規模についてみるに、児童が六百八十名のところが七百十名と、三十名も急増し、学級も十八学級が昭和三十九年度の新一年生から、三学級編成が四学級と漸次増加します。従って昭和三十八年度頭書から職員も十八学級の規模である故に、県職の事務職をはじめ、他に専任教員が一名増加して、大世帯の職員組織となり、市内でも大規模学校となって今後益々発展する学校規模の優秀校であります。しかも七百余名の児童は、都心の周辺とは言え、大へん温厚で一人の問題児も見当らず、しごく立派な児童でありましたことは、これひとえに家庭教育が堅実にうまくいっている証左であると思っています。
 殊に特筆したいことは、PTA役員ならびに会員・地区民の力添えで放送設備、施設に六十余万円をかけていただいて、八月の夏休み中に備えつけられ、完成披露式を九月に、また給食施設が非常によく整備されミルクの二重釜が設備され、ミルクの給食が現在では見たところ粉乳をといたミルクの感じでなく、本当の生の牛乳のような感じで、味はおいしく、児童のアンケートにもそれはよく現われていました。この二重釜の施設は、市内でも指折り数えるような施設で大へんすぐれていました。これもPTAの御厚意で第三学期早々に設備されました。
 第三に職員の事務能率をあげるために、地区のみなさまが、廃品回収というPTA事業に快く協力していただいて、輪転機を購入され、今までのルーラーの手押しの摩擦式の騰写版で全児童、全家庭へのプリントと、二人がかりで午前中も要した仕事が、輪転機で僅か半時間そこそこで済まされるというような事務上の能率面の向上したこと。
 その他幾多の面で羽津小学校の諸施設、設備の整備されたことは枚挙にいとまがありません。現在の勤務校では未だしの点が多々あるので、今後大いに努力し羽津小の後についていくようにつとめる次第です。

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思い出すこと                旧職員 太田 裕久

 この四月の異動で四日市浜田小学校の教壇にたつことになりました。十年ひとむかしといわれていますが、そんなに長い間いたのだろうかと思うほど、月日のたつのははやいものです。
 このひとむかしの間いろいろなことがありましたが、まず第一に思い出すことは赤痢の発生で、学校や町中がてんやわんやになったことです。私もみんなの予想にたがわず入院ということになりましたが、はじめは注射、注射の連続で全く閉口しました。後半になり体が復調しだすと一日おきの検使で「菌あり」といわれないかと心配でした。幸い二週間余りの病院生活で退院できましたが、この赤痢が原因でなくなられたお子さんや、障害が残ってしまったお子さんがいることを思うとき、伝染病の恐ろしさを痛感いたします。
 現在特殊学級の担任として精薄児の教育に微力をつくしているわけですが、私のクラスの半分以上の児童が病気が原因で標準よりおくれてしまったと考えられます。

 伝染病のシーズン、おたがいばい菌にとりつかれないよう気をつけたいものです。       (元本校職員)

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しいの実                      旧職員 津坂 治男

 私が羽津小学校に来たのは、七年前の十一月十二日でした。第二校舎の先の玄関らしくない玄関を上がったすぐ左手が校長室で、右手の廊下を仕切った所(今の掃除道具倉庫)に保健室がありました。職員室が満員でやせた私でも通りにくかったのにも、また、そのとなりの図書室兼理科室というきゅうくつな取合わせにもびっくりしました。しかし、それも、ベビーブームと四日市の工業化とが重なった結果で、田舎から出て来た私にはかえってたのもしく感じられたものです。
 申し訳ないようなことでしたが、十一月いっぱいはかなり暇でした。受持つことになっていた二年D粗が十二月から新しく生まれることになっていたからです。それで、昼休みには、よく学校の周りを散歩しました。中でもいちばんよく訪れたのは志?神社です。やしろのまわりの、うっそうとしげった林が好きだったのです。それに、遠くから目立つしいの木もありました。
 社殿の裏の方を歩いていると、時々低学年の子に出会いました。給食をすませての帰りに、道草をしているのです。その子らは、見つかっても叱られないと打ちとけてきて、拾ったばかりのしいの実をくれたりしました。そうじが始まりそうになってあわてて学校へ戻る道、こっそりそれを口にした時のうまさを今でも思い出すことができます。
 その林は、五年前の伊勢台風でさんざんにいためつけられました。大木があちこらで倒され、電車の窓からも、それは、さびしい姿に映ったものです。
 志?神社にはやがて結婚式場も建てられ、春には写生大会なども催されるようになって私がしいの実をもとめた頃とはずいぶん変わりました。いや、お宮ばかりでなく、羽津小学校も、地区も、そしてもちろん四日市も見ちがえるほど粧いを変えてしまったのです。
 こないだも、富田へ行くついでに、自転車で羽津の町を縦断してみました。国道沿いの田の埋立ては相変わらず盛んですし八田から別名、そして鵤にかけてもますます家がふえております。垂坂山の南から西にかけては、完全な住宅地帝となりつつありますし、いずれ羽津小学校も何年か先には鉄筋のモダンな校舎を持つことでしょう。でも、その時にも、志?神社や垂坂山の緑に象徴されるような羽津地区の豊かさが学校の中にも溢れていてほしいものです。
 旅してわかる故郷の味―とでも言いますか、羽津とお別れして数か月の今、しみじみと、七年前のしいの実のように生で深い羽津の味をかみしめております。

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昭和三十九年の歩み              現職員 水谷 勉

 創立九十周年の輝かしい歴史の上に、大きく発展の一歩一歩をふみしめて、日夜休みない羽津小学校に、この四月から奉職させていただくことになりました。着任の四月にはすでに創立九十周年記念事業の一つとして校誌編集の計画がたてられており、早速計画の具体化に取りかかることになりました。
 五月そのアウトラインを企画委員会で決定し、六月には資金集め、七、八月には原稿依頼と編集にとりかかり、九月十五日を目標に編集完了への努力を続けてまいりました。その間大野PTA会長が突然の病魔におかされ以後自宅にて安静加療のやむなきに至り、森副会長が八月以降の校誌編集業務その他について代行されることになりました。
 昭和三十九年度の学校運営につきましては、六月・十二月の二回、廃品回収を行うことによって資金を獲得し、十九万八千円をもって全教室に螢光灯をとりつけました。また八月には連合白治会のご尽力により、運動場にありました国旗掲揚塔を管理棟近くに移転して運動場使用の合理化を実現いたしました。
 以上簡単に昭和三十九年四月からの歩みを記しました。

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走馬燈                    現職員 横山 侃

 子供の頃の夏祭りには、よく「走馬燈」を売っていたものだ。最近は、あの懐しいニオイの出るアセチレン燈も、裸電球に変わり、キュキュと哀愁を奏でる海ホウズキも、走馬燈と共に消えてしまった。フ卜した事から走馬燈を入手する事が出来て窓下に涼気を呼んで妖しく美しくまわっている。
 紫煙をくゆらせ乍ら、移り変わる絵図を眺めていると、九十周年の走馬燈の絵図はどうなるのだろう。そしてそれこそ数多い走馬燈を必要とする事だろうと、短かくなった煙草にも気ずかず思いにふける。……
 その世代の親心、子の心、社会事象、が過去を呼び戻してくれたら、どんなに楽しいものになることだろうと。
 そういえば羽津にもよくいわれる豪傑というのがいたものだ。
 しかしこの豪傑君は、ああマタカと顔をしかめられながらもなかなかどうして一本筋が通っていた。
 「講堂の幕が、また無い!」‥‥あら不思議や、中央の開口からこの幕を裏返しにして(真赤なビロード)、デレン、デンデンと登場に及び、開口一番「先生!!この下はきたないぞ)掃除当番がナマけてるから、ホラ、こんなに汚れたに」何をかいわんやだ。この豪傑君立派に成人して、大きい弁当箱をかかえて真っ黒になって働いている。
 現在は水道管を直結したのに、東京の水キキンならぬ水不足をかこっているが、講堂前の井戸水が唯一の不適飲料として重宝がられたものだ。夏などはまさしくカンロ、カンロ、の冷たさだった。横目でジロリと眺め乍ら「ああー、ウマイ‥‥。」
 「水が出やへんで掃除せんでもエエ」すぐ井戸へ飛ぶ。ポンプは妖しい音を断続的にひびかせているのに気づく。ソレポンプ屋へ電話だ。今日は掃くだけでよろしいと最終指令がとぶ。これで幕。
 どうも水については今昔共に苦労有りだ。しかしあの時は、暑いしえらいし焼けた背中や首すじが、ヒリヒリとシャツを通していたものだ‥‥。サア!!明日からの水泳の弁当はニギリメシを持ってくること、梅干を中へ二つ程入れた方が良い。霞ヶ浦利用の水泳注意の一つだ。大雨や大風の後などは、大根やキャベツ、スイカの残がいがこれみよがしに口へとびこんできたものだ。お昼の弁当の時の楽しそうな表情は今だに目に浮かぶ。
 「今日の君のニギリメシはバカにゴマがついているナ‥‥。」いや落としたんです。
 走馬燈のローソクが燃え切れるのか、泳ぎ回わるランチューの姿がホノカになったようだ。校庭の桜や楓が風雪に耐えて、生きた走馬燈の役割りを、果たしているのに違いない。そして、我々に何を求め何を訴えているのだろうか。ほとんど咲かなくなった桜にとっては、工業郡市四日市の将来をじっと見守るのが精一杯だろうか。

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九十周年におもう                 現職員 国枝 秀子

 創立九十周年、人間でいえば九十才、私の年令の二倍近い年月です。その間には幾多の発展があったことでしょう。ことに教室、運動場などなど。今年も国旗掲揚台が移転されました。
 しかし今も昔も変わらないのは幼い子どもたらの澄んだ清らかな瞳ではないでしょうか。毎年四月の入学式のとき子供たちの大きく見開いた瞳、あの輝きの中に私は幼い命の躍動と人間の限りない可能性を感じます。この子供たちの中に潜んでいる可能性や、胸の中ではばたいている希望をこれから思う存分伸ばすのだと、まるで、自分も子供と一しょに入学したような魂の充実を感じ、毎年はりつめた気持ちで四月の新学期を迎えるのです。新学期のあわただしさの中で校庭の桜を眺める無心の一とき、始めての給食。垂坂山への遠足。秋の運動会など共に遊び共に学ぶ楽しさ‥‥。
 この羽津の学び舎に、そう‥いつのまにか、六とせの年月がながれてしまいました。その間入学式のときの幼い瞳がいっそう輝きをますように、小さな胸の希望がすこやかに育つように、子供たちの限りない可能性の素質に方向づけをして希望達成の喜び豊かに味わう日を楽しみに歩んできました。共に眺めた桜や楓は毎年毎年成長を続けています。子供たちも、この桜や楓にまけないように立派に成長して、いつの日にか学び舎を訪れてくれる日を楽しみにまっています。
 年々市と共に発展する羽津小学校。卒業生の皆様がた、たまには懐しい思い出多き校庭へ歩をおはこびください。

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あれこれ                 現職員 松井 茂

 「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。」‥‥
 月日のたつのは早いもので、私が本校に着任してから十年になろうとしています。その間、子供たちと共に送った日々、また垂坂山麓一帯にまで発展し、今後も益々発展しつづけるだろうこの地域‥‥。
 今日も窓越しに、秋晴れの空を眺めながら、いろいろ思い出すことどもが次々と走馬燈のように、ついては消え、消えてはついて、胸中を去来し、ああ、もう十年にもなるのかなあー、と考えている中に、感無量なもので胸がつまってきます。
 伊勢湾台風、赤痢禍、キャンプ、学習発表会、修学旅行等々数えあげれば枚挙にいとまがありません。
 児童は明るく、健康的で、御父兄方も他の地区にみられぬ献身的、協力的で、教育の場としては本当によい環境のところであると信じております。
 本年は創立以来九十年とか。この長い伝統と歴史をもつ本校に奉職させていただいている喜びも新たに、今後ますます教育に専念いたしたく念じています。

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児童生徒作品

おみまい                        一年

しおはまびょういんへ、としこおばちゃんのあかちゃんを、みにいったら、あかちゃんが、おおぜいならんでいました。
わたしは、大きくなったら、いろんなことをして、あそべると、おもいました。

うきわで なみに のって あそんだり かいがらや いしを たくさん ひろったりしました。
すなやまを つくったら なみが こわしていった。

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うみ

 だばん だばん
 およいでる。
 だばん だばん
 うみが、
 ふかなってくると
 しらなんだ。
 だばん だばん
 びっくりした。
 だばん だばん
 おふねが、とおる。

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八月十八日

ぶうるへ およぎにいきました。
うきわにのったら 大きいこたちが うきわのまま ひいてくれました。
水が しろいあわをたてて あとからついてきました

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わたくしたちの学校
                                     二年

 わたしたちの学校には、あそびどうぐが、たくさんあります。このあいだ、すべりだいやジャングルジムが、さびてしまったので先生がペンキを、きれいにぬってくださいました。きゅうしょくは、おばさんたちが、おいしいものを、つくってくださいます。
 わたしたちの学校はどこの学校よりもよい学校だとおもっています。それなのにしんせきのけい子ちゃんと、あって学校の話しをしましたら、「けい子ちゃんの学校、てっきんだよ。」といいました。わたしはくやしくて、うちにかえって、おとうさんに、「なぜわたしの学校は、てっきんじゃないの。」ときいたら「わからんな、もうすぐなるだろうね。」とおっしゃいました。わたしはそれが、一ばんうれしいことです。

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                             二年

 わたしは、二年生に、なって、ぜんぜん休んだことが、ありません。学校が、たのしいからです。ねつが、少し出ても、へい気で学校へ、きます。
 うんどうじょの中で、一ばんすきなあそびは、高いほうの、てつぼうです。せいのびをして、とどくぐらいの、てつぼうです。三分ぐらい、ぶらさがって、いると、せいが、高くなるからです。
 ことしは、学校が、たって、九十年めです。人げんで、いうと、九十さいです。
 おねえさんは、小学生の、ときに、休んでばかりいたそうです。わたしは「なさけないなあ。」と、おもいました。

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                            三年

 私たちの学校は、九十年前につくられました。今年で九十才になるのです。
 私のおじいさんよりも、おばあさんよりも年が多いのです、年をとりすぎたせいか、学校の中にはずいぶんわるい所があります。雨がふった時は、くらくて字も読めないほどでしたが、二学期からは白い電気がつくようになりました。
 六年の教室と、職員室は新しいので、私は「いいなあ。」と思います。だから私たちの教室も新しくしてほしいと思います。みんな協力して、羽津小学校を新しい羽津小学校にしてほしいと思います。
 また夏休みには、おかあさんやおとうさんたちが、草とりをしたり、なおしたりしてくださいましたので、とてもきれいになりました。
 新しい校しゃもいいけれど、古くても新しさをみんなでつくることが、たいせつだと思います。
 みんなで力をあわせて、できるだけきれいにし、いっしょうけんめい勉強していきたいと思っています。

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                              四年

 私たちの学校は、空気のいい日のよくあたる、けしきのよい学校です。
 今から九十年前にたてられたそうです。家のおじいさんや、おばあさんもかよっていたくらいですから、大へん古い歴史をもっています。
 そう立いらい、九十年という年月の間にはいろいろなことがあったと思いますが、私にとってもわすれられないことは、一年生の時におこった集だんせきりの時のことです。私も学校でいただいたもちをたべ、せきりにかかりました。早速学校の教室をつくりなおした病室に入院しました。生れて始めて、おとうさんやおかあさんとわかれて、とってもさびしかったことをおぼえています。
 それから二度とこんなことがおこらないよう学校の先生や、町内の人々の協力で、私たちの給食がつづけられています。
 一学期の終わりごろ水道の所に、石けんえきを入れたものがとりつけられ、私たちはそれをつけて手を洗い、教室へきますと、ろう下においたオスバンえきで、しょうどくをしえい生には、じゅうぶん気をつけています。
 また去年新しく放送きかいを買い入れてもらい、お昼の放送げきをしたりして、いろいろ利用しています。
 また、五、六年生になりますと、こてきたいがつくられ運動会などには、美しいこてきのひびきがきかれます。
 私も早く五年生になりたいと思っています。そしてでんとうある羽津小学校にはじないようなりつばな生徒になりたいと、いつもねがっているのです。

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                           五学年

 「朝日かがやく伊勢の海
  青雲なびく鈴鹿山‥‥」
私は校歌を歌うとき、いつも「私たちの校歌が、もっとわかりやすく調子のいい、新しい感じのする歌だったらいいのにな。」と思います。それでおかあさんに、そのこと言ったら、おかあさんは「羽津小学校は、九十年前にできたのだもの古く思うでしょうが、その古い校歌がねうちなのよ。」とおっしゃった。私も「それもそうだな。」と思って学校のことを、いろいろ考えてみました。
 九十年前といえば、私のおとうさんたちはもちろん、おじいさんたちも、まだ生まれていません。そんな昔にできた学校では、どんなかっこうをした生徒が通っていたのかしら。そしてどんなことを勉強していたのかしら。やっぱり宿題があったりテストがあったのかな。九十年の間には、いったい何十人の先生や何万人の生徒が勉強したのでしょう。そんなことを考えていたら、私たちの学校がとてもねうちのある物だという事がわかって来ました。
 私の家の裏の変わった建物が、昔の学校の一部だそうです。その高い屋根のかざりを見ると、今までは「変わった屋根の飾りだ。」と思っていただけですが、この建物が私たちの学校に、関係のあることを先生に聞いてから、その建物を見るたびに心のひきしまる思いがします。
 私たちの学校は、静かな所に建っていて、町の学校にくらべると運動場も広いし、工場や乗り物の音にじゃまされないで勉強できるのは、とてもしあわせだと思います。
 けれど、もし鉄筋コンクリートの明るい建物で、音楽室にはたくさんの楽器がならび、理科室にほ実験道具がいっぱい揃っているようになったら、どんなにいいだろうと思います。
 でも私のおねえさんの時には鼓笛隊もありませんでした。だんだん設備も整っていくので、私たちの学校は、もっとよくなっていくでしょう。私はそれを楽しみに勉強していこうと思います。

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九十周年
                                 六年

 ぼくらの羽津小学校は、今年で九十年です。九十周年の歴史を持つ学校は、数が少ないと思う。また九十年の間、雨や風などに負けずに、立派に建ち続けてきた校舎をたくましく思います。
  ぼくが生まれる前から、みんな勉強して来た学校。ぼくの入学から六年間育ててくれたこの学校。どれほど数多い思い出が残っていることでしょう。
 給食が好きになった喜び、赤痢になった悲しみなど思い出はつきません。また、学校週番活動や学校議会などをしっかりやり、羽津小学校を今よりも、明るく楽しくしていきたい希望をもっています。たとえ、ぼくらの手で実現する事が出来なくても、五年生・四年生の後はいがなしとげてくれる事でしょう。
 入学した時の学校はきらいであっても、卒業するまでには、きっと好きになる羽津小学校です。このよさは、ぼくらの先ぱい・おとうさん・おかあさん・先生方でつくり出された努力の結晶だと思います。
 この伝統を幾百年後までも守り育てていきたいものです。ぼくたちも卒業まで、がんばります。弟や妹たちも歴史ある学校を、さらに輝きのある学校へと育ててください。
 終わりに「羽津小学万才。」と心から祈っています。

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思い出の鼓笛隊
                               山手中一年 川村 庸子

 羽津小学校が、今年創立九十周年を迎えることになり、昭和三十八年度卒業の一人として、ほんとうに嬉しく思います。
 私が羽津小学校に入学してから、卒業するまでの六年間に、嬉しいこと悲しいことなどいろいろありました。
 私が五年の時に鼓笛隊が編成され、先生がたの指導で練習を繰り返したことは、今もなお、昨日のように思い出されます。
 私は小太鼓を受け持ちましたが、今でも時にはバチをもって机の上でたたくこともあります。無意識に両手に鉛筆を持って、机をたたいていることもあります。そんな時、また鼓笛隊に入ってもう一度小太鼓などをやってみたいなと思うことがあります。それは中学校に鼓笛隊がないので、よけいに感じるのかも知れません。
 私は音楽が好きなので、音菜クラブでバイオリンとコーラスの二つを受けもって、いっしょうけんめい練習しています。でも私にとっては、小学生活の中で楽しかった思い出の一つです。
 朝礼の時・学習発表会・運動会そして三十七年度卒業生を送る時など、いろいろの時にみんなでいっしょうけんめいやった思い出。私には練習の時も、とても楽しかった。
 バチを折った経験、バンドのしめかたがわからなくて友だちに聞いたこと、譜がわからなくてまごついたりしたこと、でも日がたつにつれて上達したこと、運動会前に新しく入った友だちを教えてあげたりしたことも、今では懐しい思い出になってしまった。そして私たちが三十七年度卒業生を送ったように、私たちを鼓笛隊のきれいな演奏で送ってくださった。私は鼓笛隊の前を通る時、ちょっとはずかしかったが、とても嬉しかったことを覚えています。
 私たちがあこがれていたバトンボーイ・バトンガールも今はでき鼓笛隊もいっそうはなやかになり、これからもいっしょうけんめい練習を積み重ねて、今よりいっそう立派な鼓笛隊が育っていく事を、心から祈っています。
 羽津小学校在学中の楽しい思い出を書きつづり、感謝の誠を捧げると共に、九十周年の良き年をお祝い申しあげます。

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小学校の思い出
                              山手中二年 小泉 摩利子

 私が小学校へ転校してきたのは、入学式も済んだ五月のある日でした。その時は先生をはじめ友達、校舎のすべてが新しいものばかりでした。
 それからはや六年、喜びとちょっぴり寂しい気持ちとで、大切な卒業証書を胸に校門を出るまで、この古い学び舎はいつも私を見守っていてくれました。その羽津小学校ももう九十周年を迎えたのですね。本当に長い間ごくろうさまでした。
 ここで過ごした六年間は決して楽しい善び満ちたものばかりではありませんでしたが、すべてもう味わうことの出来ない思い出として私の頭の中に深くきざまれています。
 今考えてみるとその一つ一つの生活に満足できるものはありませんが苦しい時いつもあの教室で、皆と過した六年間のことを思い出しては苦しみを乗り越えようとする私です。それだけ小学校時代の思い出は忘れがたいものなのでしょう。
 その一つ。何といっても修学旅行です。あの時の光景は今もはっきり覚えています。一週間も十日も前からお友達と、おみやげや車中でのおやつのことを語り合ったあの日々。空もすっかり暗くなった阿倉川駅で電車を降りたこと。母にあった時は本当に安心しましたが、もう終わりというとつまらない気持ちもありました。
 なんといっても旅舘での時間は一生の思い出です。何度も何度も「おやすみなさい。」と言ってもうれしくて寝られなかった夜。十二時位まで、ぼそばそひそひそ話がつきませんでした。
 買い物好きの私にとっても京極でのことも忘れることのできない一つです。ひとつひとつの店をたんねんに見てまわって一文も残っていなかった財布の中。それでも兄や両親にその話をした時は、楽しくて楽しくてしかたありませんでした。
 みんなでお膳をかこんで食事をしたこと、バスの中でのおしゃべり、雨の中での記念さつ影。ガイドさんの説明も耳にはいらず、はしゃいで見学した二条城、東大寺。東本願寺では足がしびれて立てなくなってしまったこと。その他、旅行のことだけでも思い出はつきません。
 かぞえきれない程の思い出といっしょに最後の謝恩会で、「ほたるの光」のピアノ伴そうをしてまちがってしまい、思い出はまた一つふえてしまいましたが、お菓子を食べながらコントや手品など見たことはいつまでも私の記憶に残るでしょう。  そして私達を育てはぐくんでくれたこの歴史の古い羽津小学校。ここで学んだことを誇りとして、りっぱな社会人の一人として日本をささえる「縁の下の力持ち。」になれたら幸いだと思います。

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                     山手中三年 神田 順子

 わたしが羽津の住人になったのは、四歳のときだった。やがて学校にあがらなければならないわたし達姉弟に、「幸福な学校生活を送らせたい。」と、いう両親の願いがもとで、この地に居を構えたのである。だからわたしは、-度も転校する事なく、羽津小学校で六年間を落ちついて勉強できたことを、心から喜んでいる。
 わたしは生まれつき、運動神経の鈍い子だった。絶壁頭もその加減なのだろうか。何をしても、ちょっとやそっとの練習では、人並にはなれなかった。確か、一年生の頃だったと思うが、体育の時間に竹登りがあった。殆んどの友達は苦労しながらも上の方まで上れるのに、わたしはそれができない。地上一メートルといいたいところだが、何しろ小さかったので、せいぜい五〇センチメートル程度だっただろう。みんなに笑われるのは嫌だったが、どうにもならない。この事を知った母は、毎日学校で練習するように言った。どんな事でも、サーカスのように楽々とやってのける子を、わたしは羨ましそうに見上げたものだった。でも羨ましがっていさえすれば、自分もできるわけではない。そのときわたしは、「絶対上れるようになろう。」と強い決心をした。土曜日、日曜日には母もー緒に来て、教えてくれたり、励ましてくれたりした。足は棒のようになり、ひきつれて痛い。手には肉刺(まめ)が破れて、赤い身が見える。それでも我慢した。そんな幾日かが続いたある日、とうとう竹の頂上に到達する事ができたのである。少しびくびくだったが、高い所から見おろす地上の眺めは、何とも言い表わしようのない気持ちだった。毎日毎日、頑張りぬいていた小さな両手には、もう堅くなった肉刺のあとがいくつも残っていた。立派に五体揃っていながら、わたしには何が欠けていたのだろう。それは不断の努力と勇気。この事がわかったのは、竹の上に上りついたその時だった。何事もやれないことはない。自分がやらないだけなのだ。これをわたしは、身をもって知ることができた。成長の第一段階において、このような体験ができたわたしは、大へん幸福者と心から喜んでいる。

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この校誌の巻末には、協賛広告が多数掲載されています。これらも当時の状況をうかがい知ることのできる興味深いものです。

     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     

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