羽津の昔「子どもの遊び」
1.いろいろな遊び
蛇のひげの実
蛇のひげの実ができる頃、その実の皮をむくと、中から透きとおった小さい玉のような芯が出てくる。それを石か三和土の上でつくと、まりのように高くはながり、面白かった。「1、2、3」で、2、3人が同時につき、どの玉が高くあがるかを競ったりした。
また、笹竹の細いのや麦からを短かく切り、その先を少し割って外側へ曲げ、その真ん中に蛇のひげの実を乗せ、上へ向いて吹きあげる。小さい玉が浮きあがって落ちないように、息の吹き加減をうまくするのがコツである。蛇のひげの代わりに、えんどうや大豆の実を使うこともあった。
昔は、オモチャを持っている子は少なく、こうした自然物を上手に使って遊んだ。上級生と下級生とが一緒に遊ぶので、年長の者がするのを真似して覚え、それをまた小さい子にも教えていった。
筍の皮の傘ぼこ
筍の出る頃、むいた皮が竹藪によく捨ててあった。それを拾って来て一枚クルクル巻いて棒状にする。これが傘の柄になる。もう一枚は、白い柔らかい部分を切り捨て、残りを巾一センチメートル位に縦に裂く。このとき、上下は離さないよう残す。そして棒状にまいた柄に、手で上はしっかり、下は軽い目にしばり、傘をさすように広げたり閉じたりして遊んだ。
草笛
別に誰から教えられたということはなく、昔は、自然物をそのままおもちゃとしたあそびが多かった。道端に生えている草、またお宮さんやお寺の木の葉っぱ、これが笛の代わりになった。
げんげ(れんげ)の首飾り
春になると、田んぼの中や土手には、げんげの花が美しく咲き乱れた。この花をいっぱい摘んで歩き、これを長く束ねて首飾りをつくった。
また、摘みとったげんげの花を家に持って帰り、風呂へ入る時、ぬか袋に入れて顔をこすった。げんげの花で顔をみがくと器量がよくなると言われていた。
ぬか袋とは、米ぬかを袋につめたもので、当時はこれを石ケンの代用にしていた。
つっつきぼうしとり(つくしとり)
春のお彼岸さんがすんで、温かくなってくると、川の土手や田んぼの畦や家の囲りでもつくしがいっぱい顔を出した。女の子たちは、学校の帰り道、5、6人が集まって
つっつきぼうし出やんせ
鐘がなったに出やんせ
と大声で歌いながら採って歩いた。いくらでも生えているので、採っている間に、家の方と違った方へ行ってしまったりした。手にいっぱい採ると、日なたの草の上に座りこんで、誰が一番たくさん採ったのか、誰のつくしが一番長いとかを競争して遊んだ。家に持って帰り、「ままごと」に使うこともあったが、それよりも晩飯のおかずになることが多かった。「はかま」を取ったつくしを、煮たり炒めたりして食べた。
スギナどこついだ
学校からの帰り道など、道ばたに生えているスギナを採り、その節のところを一箇所だけ抜いて離した後、元通りに接しつなぎ、「スギナどこついだ」といって、どの節をついだかを当てっこした。
つないでいる所を見られないように後向きに体をこごめて隠したり、つないだところを見破られないように、なるべく節の多いスギナを選んで慎重に引きはなしたりした。
わらびとぜんまいとり
筍の出る頃、狼谷や丸山へ行ってワラビとゼンマイを採った。芒や笹の原をかきわけながら一生懸命にさがして採ることが面白かった。
ワラビは、そのまま調理して飯のおかずにしたが、ゼンマイは、先端の渦巻きのところについている綿を取ってから、日干しにしておき、乾燥したものを和え物にしたりして食べた。
すみれ・おばこ・ポプラの相撲
春先になると、野にも路傍にも家の周りにもすみれ草の可憐な紫色の花が咲く。この花を摘んだ祭に、茎のくびれたところを引掛けあって相撲した。お互いが引っ張り合い、茎のちぎれた方が負けである。
夏になり、おおばこの穂が出た頃、これを抜いて相撲をした。なるべく太くて丈夫そうな茎をさがし、これを相手のと交差させ、「ヨーイドン」で引っ張り合いをする。ちぎれた方が負けとなるので、なるべくひねた茎をえらび、それをもんで強くしたり、引っぱる力を加減したり、色々と考えた。
尚、当時は、おおばこを「おばこ」と短く発音していた。
小学校の庭には、ポプラの木がたくさんあった。秋になると黄葉して散る。この黄色くなった葉の柄でも相撲した。
拾ってきた葉柄は、二・三日おくと乾燥してもろくなり、ちぎれやすい。そこで、沢庵みたいに重しをかけて塩漬けにしたり、母親のつばき油を失敬して油漬けにしたりして、強度を維持するよう加工したりした。しかし、同じ太さのものなら、木から散りたての葉柄のほうが加工品よりも強かった。
草の葉とばし
ヨシの葉など、細くて長い草の葉を採り、図のように中心を走る筋の両側を裂き、これを素早くしごいて、遠くへ飛ばす競争をした。ススキの葉でもできるが、これは下手をすると手を切ることがあった。
笹船あそび
春や夏の好天気の日には、熊笹の葉を舟のかたちに折って、大きなタライに浮べたり、小川で流したりして遊んだ。
昔は、今と違って小川の水は大変きれいで、童謡にあるようにさらさらと清らかな音をたてて流れていた。その川には、幅のあまり広くない土橋や石橋があちこちにかかっていた。川に沿うた道も長く続いていて、土手には色々な草が、四季折々の花をつけ、川べりには葦や笹がそよいでいた。
フナやモロコが群れて泳ぐのもよく見えた。そんな橋の上にしゃがんだり、腹這いになったりして顔を川のほうに並べて、めいめいに作った笹舟を一斉に川に流し、土手の道を笹舟とともに川下へ向かって走った。一番早くそして遠くまで流れれば、一等になったと言って喜んだ。
タライに浮べて遊ぶ時は、息を吹きかけたり、手でつっついたりして舟が動くのを楽しんだ。
海や川での泳ぎ
夏の水泳も盛んだった。海・川・池など泳げそうな場所では、どこへでも飛び込んで泳いだ。
海は、前の浜一帯が潮の干満の差が大きい遠浅で絶好の水泳場であった。当時の浜は、まさに白砂青松という形容がぴったりするほど美しく水もきれいに澄んでいた。潮干狩りもできた。しじみ、あさり、はまぐり、マテ貝、バカ貝など、たくさんの貝がとれた。
浜の漁業権は富田が所有していたが、富田の漁師が地引き網を引く時には、羽津の大人も子供も手伝いに行き、獲れた魚を分けてもらってきた。「ヤッサエ-サットコ」と掛け声をかけながら「ろくろ引き」で網を引きよせると、イワシ・シコ・スズキ・ボラ・アジ・キス・イカなどといった色んな種類の魚が大量に獲れた。
川では、海蔵川の川口などで泳いだ。村のあちこちにあった溜池で泳ぐこともあった。
日清戦争後から、当地にもレンガ工場ができ、中天水(今の大宮町)の藤井レンガ、阿倉川の四日市レンガ、別名の羽津レンガの三つが操業をしていた。農閑期になると当地の百姓たちは、手車を使ったレンガの土引きに雇われたが、その土を採った後には、大きな穴があき、雨水がいっぱい溜まっていた。それをプール代わりにして、濁った泥水の中を泳いで遊んだ。底に沈殿した泥土に足をとられて溺死した子もいたが、それを恐れることもなく泳いだ。海でも、かなりの人数が溺死した。
レンガは、関東大震災の時に建築用としては不適当であることが証明されてから、ぱったりと人気が落ち、当地にあったレンガ工場も太平洋戦争の頃には廃業となった。
このレンガ工場では、大正の中頃から、それまでの手車のかわりにトロッコを使うようになり、村の中を長い線路が走っていた。子どもたちの中には、トロッコの後押しを手伝いに行き、土をおろした帰りのトロッコに乗せてもらうのを楽しみにしている者もいた。
黒色の越中フンドシは、たしかに大正十年ごろから普及したと記憶している。それまでは、男は、下着にしている白いフンドシ、女は赤い湯巻を腰につけただけの姿で泳いでいた。ガエル泳ぎ、ヌキテ、背泳ぎなど、浜に近い子ほど泳ぎは上手だった。
かいどり
夏休み中の男子の遊び。小川や田んぼの畦を土砂でせきとめ、桶やバケツで水をかい出し、もろこ、ふな、なまず、どじょう、うなぎなどを「しょうき」(竹製のざる)ですくいとった。
みんなでギャアギャア騒ぎながら魚を捕まえ、桶に入れる。グズグズしていると、せき止めた水がふくれあがり、土砂を破って折角かい出した水が元に戻ってしまうので、手際よく作業をしなければならない。この遊びは泥だらけになるので、着物は脱いでパンツ一枚の姿になる。そのパンツも泥だらけにすると親に叱られるので、川の水で洗い、乾くまでフリキンで待っているが、面倒くさいと半渇きのまま 穿いて帰った。
こうして獲ったなまずの蒲焼きは格別に美味しかった。当時の農家のご馳走といえば鰯や丸干で、他の魚は祭りか結婚式の時くらいしか口に入らなかった。
弓たもとのぞみ
小川や用水での男子の夏の遊びである。
竹を半月にまげた両端に網をかけたのが「タモ」で、巾は60~70センチメートルである。川の中に裸足で入り、川上から水を濁らせて魚を追いこみ、川下に「タモ」を受けて素早く引き上げると「鮒」や「はえ」や時には「鯉」も捕まえることができた。
「タモ」を持って引き上げるのは上級生。追いこむのは下級生。上手くく追いこまないと叱られた。獲れた魚を運ぶのは幼い子と、上手く役割が決まっていて何時間でも遊んだ。
これとは別に、「のぞみ」と言う竹で編んだ円錐状の罠を仕掛けて、川魚を生け捕りにする方法もあった。「のぞみ」の中には、煎った米糠を入れておき、米糠の匂いに誘われた魚が中へ入ると、二度と外へは出られない仕掛けであった。
蝉とり
7・8月頃、蝉が鳴き出すと家にじっとしておれなくて、山や神社や寺など樹木のある所へ蝉をとりに行った。今のように、「タモ」を店屋で買うのではなく、自分たちで作った。柔らかい木の枝を丸くたわませて、竹竿の先に挿し入れ、蜘蛛の巣(くものへんばり)を沢山からませる。こうして蝉の背中へそーっと近づけてとるのだが、ねばりが蝉の羽につくので上手く獲れた。
また、母親が夜なべ仕事に布や手拭いでタモを作ってくれたこともあり、大事に使った。蜘蛛の巣に粘りのあることも上級生たちのする遊びから覚えていった。
トンボとり
夏には、トンボ獲りをした。ムギカラトンボ、シオカラトンボ、赤トンボ、ヤマトンボなど、トンボの種類も多かった。
竹の棒や葉の先に止まっているトンボを見つけると、人さし指を回しながら近づいていき、さっと手を伸ばして捕まえた。また、藁しべで小さな輪を作り、それを持って、トンボの背後からしのびより、尻尾に輪を通すと同時にこれを閉じて捕まえる方法もあった。時々、藁しべをつけたままトンボが飛んでいくこともあった。捕まえたトンボの尻尾をちぎり、代わりに麦からを短く切ったのをつけて飛ばすという残酷なこともした。尻尾に結びつけた糸を持って、飛ばせたりもした。
トンボの中で最も風格のあったのはヤマトンボであり、これを捕まえるのは容易ではなかった。それでも苦労してメスのヤマトンボを手に入れると、これをオトリにしてオスを捕まえた。メスを糸でしばり、これを回して飛ばせると、オスが交尾に寄ってくるので、それを狙ったのである。オスのヤマトンボは、体も大きく胴のあたりは青く澄んだ色をしていて本当に美しく堂々としていた。
ほおずきならし
昔も今も、お盆にはお墓にほおずきをお供えする。そのため、昔は畑のすみには決ってほおずきが植えてあった。
ほおずきの実の赤くなるのが待ち遠しく、女の子はお供えした残りをもらった。袋の中身の丸い実だけをとり、掌や指先でそれを繰返し抑えたり、揉んだりすると、中の種が固く詰まっているのがだんだん柔らかくトロトロに解けてくる。それを小さな穴からゆっくりゆっくり外へ出すのだが、出にくい時は針でかきまわしたりもした。あわてたり、乱暴にしたりすると皮が破れて駄目になってしまった。こうして、すっかり種を出してしまうと水で洗い、口の中へ入れて鳴らして遊んだ。口の中へ入れて鳴らすのは、なかなか難しく、上級生以上でないとできなかった。
手の中で柔らかくする感触や、中の種を出す時の緊張感、そして上手に鳴らせた時の満足感は忘れられない。友だちと上手く作る競争をしたり、また一人で静かに作りあげる喜びは、実際にやってみた者でないと分からない。
はたる狩り
昔は、ほたるも沢山いた。水はきれいだったし、ふんだんに流れていた。暑い晩は戸を明けっ放しにしておいたので、ほたるが迷いこんできた。
なにしろ夜はまっ暗だった。家の中には、小さい裸電灯がひとつ点いとるだけだったし、外灯などは、ひとつもなかった。
そんな暗がりの中を、みんなで誘い合わせて、ほたるを獲りにいった。
ホーホーほたる来い
あっちの水はにんがいぞ (あっちの水は泥水や)
こっちの水はあんまいぞ (こっちの水はサト水や)
と歌うと、あっちからもこっちからも負けんように歌う声がおこって賑やかだった。軒先に干してあった菜種のからを振り回しながら、飛んでいるほたるを叩き落した。そうして、獲ったほたるは麦からで編んだほたるかごに、その辺で摘んだ露草と一緒に入れて、プーッと水を吹吹きかけておくと、沢山のほたるがピカピカと光った。
その頃の親は、子供が暗くなってから遊びに行っても、あんまり怒ったりしなかった。
輪つき
これも遊びといえるだろうか。昔、年長の子供たちは、堆肥用の草刈りもよくやらされたものだった。村の山野へ行って草を刈り、それを縄でしばったのを棒でかついで帰るのだが、遊びざかりの子供たちには重い仕事であった。
だから、草刈りに出た数人が出会うと、ちょっと刈っただけで仕事を投げだし、後はそこいらでふざけあいながら遊ぶのである。だが、草を刈らずに手ぶらで帰ると家の者に叱られるので、帰る頃になると最初に刈った各人の草を集めて一つの山にする。そして、その草の山の中へ、草を結んで作った直径が十五センチくらいの輪を入れてかきまぜ、草の輪がどのへんにみぎれこんだかを各人が言い当て、そこへ釜の先を刺しこむ。もし、釜の先がうまく草の輪の中へ入っていたら、草の山の全部が自分のものになり、それをかついで家に帰るのである。
こうして草をとられて手ぶで帰った者は、こっぴどく叱られるか、田んぼへ置いてきたとか何かと苦しい嘘をつくかしなければならず、みじめな思いをしたものだった。
松葉の鎖と松葉ずもう
松葉の二本足の一方を他の一方へ突きさすと円い輪ができる。それを次々につなげて長い鎖を作り、首にかけて自慢しあった。
また、松葉がかたまってついている小枝をとり、これを机の上などへ逆さに立てる。二人がそれぞれの松葉を置き、両側から机をたたきあう。その振動で先に倒れた者が負けとなる。葉先がそろって、どっしりと安定した小枝をさがしてくるのが秘訣であった。
ガタギとり
ガタギとは、イナゴのことである。秋の稲穂の実る頃、田んぼにワンサと群がっていた。子供たちは、袋やビンを持ってとりに行き、そこへいっぱい入れて帰ってきた。
町の方では佃煮にして食べたというが、当地ではもっぱらニワトリの餌にしたのである。
ドッチどっち向いた
畑の土を掘ると、茶褐色をした「ドッチ」が出てきた。これは、スズメガのさなぎで、イモムシやゴマムシが成長して、このさなぎに変態するのである。
土の中から堀だした「ドッチ」の頭の部分を持つと、尖った尻のほうがピクッピクツと動く。これを見て、「ドッチ、どっち向いた」と言い、「西ドッチ」とか「東ドッチ」とか自分の予想した方角へ尻を向かせるのを楽しんだのであった。
きのことり
山には、「すどし」、「あやずり」、「ねずみあし」、「笹だけ」、「あおはち」などといった色んな種類のきのこが沢山あった。
きのことりは親も大賛成で「たけ飯の用意しとくで、ようけ取ってこいよ」と励ましてくれた。カゴや風呂敷を持って意気込んで行くのだが、採れる時にはカゴに入らないほど採れるのに、先に大人が採ってしまった日にはさっぱりだった。
松茸は浄恩寺山、瓦屋の山、村長山にあったが、これを採りに行って、たびたび怒られた。
トンビとり
昔、羽津小学校の運動会は10月18八日と決っていたものだが、それが済んだ秋の夕暮れ前、子供3人ぐらいがひとつの組になり、それぞれが頭に風呂敷をかぶって鵤の平古や大谷の山へ行き、松や杉の木に登って遊んだ。
トンビの首を ねじあげたろか
と言いながら山へ行くのであるが、頭に風呂敷をかぶるのは、木に登ったとき赤帽子が落ちないように、またトンビに頭を突っつかれないように工夫したものだった。
「いちばん早う登るのは誰や」と言って競争した。トンビの巣を見つけ、ヒナを捕まえたこともあった。
「見つけた、見つけた、トンビ見つけた。取ったぞ」と喜び、「ちゅうこん馬が早いか、誰が早いか」と競争しながら、家まで走って帰った。
色んな虫とり
春から秋にかけては、野原に出て、蝶々やギリッチョン、スイッチョン、カマキリなど、色々な昆虫を捕まえるのも楽しい遊びのひとつであった。捕虫網網などという気のきいた物が無かった当時は、専ら足で追っかけ、素手で捕まえた。
セミやトンボは言うに及ばず、カブト虫、てんとう虫、みの虫など、あげていけばきりがない。でんでん虫も、よく捕まえてきては、角を出したり引込めたりさせて喜び、これを這わせて競争させたりした。
縁の下や山腹のほら穴の細かい砂の中にいるアリジゴクを掘り出し、掌の上に乗せて遊んだりもした。
ハタオリも面白かった。長い二本の後足を持って「おまき、機おれ」と言うと、大きくおじぎする格好で体を上下に動かすので、その様子がとても面白かった。ハタオリがいない時には、ハタオリ草と呼んでいたカラス麦の穂をぬいて、それを代用に「おまき、機おれ」をした。
子供たちのオモチャにされる昆虫にしてみれば、これほど迷惑な話はなく、何とかして逃げ出そうと苦しみもがいていたのに違いないが、かえってそれを面白がるところが、子供の残酷なあどけなさであり、好奇心であった。自然のありとあらゆるる生き物の中で、こうした子供たちの旺盛な好奇心のエジキにされなかったものはないといってもよいだろう。
ただ、クチナ(蛇)とムカデとクモについては、さすがの子供たちにも、手を出すことを躊躇させるものがあった。
クチナは、それに向かって指をさすと、指が腐ると言われていたし、家のツシ(天井裏)を棲み処にしている「地まわり」(青大将)は殺すと崇りがあるといって、親からも止められていた。もし、知らずに指をさした時には、その指を人の足の裏で踏んでもらったりした。そうすると、指が腐らないと言われていたからだ。もちろん、それでも蛮勇をふるってクチナをいじめる子はいたのだが。
ムカデも、神さんの使いだから殺すなと言われていた。だから、めったに手を出さなかった。しかし、ムカデを種油のなかに漬けたものは、傷薬として効くと言われ、大人では捕まえる者もいた。
クモは、朝グモだとゲンがよく、「懐へ入れよ」と言い、夜のクモだと「尻焼け」と言った。つまり、夜のクモは殺せということだが、同じ夜出てくるクモでも、壁を這い上る毛むくじゃらの大きなクモは、死んだ人の生まれ変わりだと言って恐れられていた。
クチナも、ムカデも、クモも、祖先の信仰と深い関わりがあったものと思われる。
この他にも、蜂は刺されると非常に痛いので警戒していたが、蜂の巣をみつけると、長い棒を持って叩き落としに行ったりした。怒った蜂に追いかけられ逃げまわるスリルは捨てがたいものだった。失敗して刺された時には、痛みに顔をゆがめながら、刺された部位に小便のかけあいをしたこともある。
昔、至る所で見かけた昆虫だが、今、ほとんど姿が見られなくなってしまったものも少なくない。
雪と氷のあそび
冬は、今よりも昔の方がずっと寒く、雪も沢山降り積もった。そんなひどい雪降りの日でも、素足に高下駄か藁草履をつっかけただけの姿で学校へ行った。足袋は、雪に濡れてビショビショになると、かえって冷たいので履かなかった。大体、ふだんの日でも足袋を履いている子は、殆んどいなかった。
そのため、冬の間中、手足にはシモヤケやアカギレがいっぱいできて、無残な有様だった。アカギレからは血がにじみ、シモヤケはひどくなると手足の肉まで腐ってきて膿が出てきた。夜、布団に入って少し暖まると、シモヤケがむずがゆく疼きだして眠れなかった。そんな時は、シモヤケの部分を糸できつくしぼり、針でつっついて黒っぽくなった血をしぼり出した。
アカギレの深く割れた所には、小麦の粒を噛んでこねたものを詰め込み紙で押さえたりした。また、麩屋で買ってきたセンベイ状の「もうち」を噛んで柔らかくしたものを、風呂に入ってふやかした傷口へ詰めたりもした。膏薬の代用であった。「アカギレもうち」というのを買ってくるのだが、これは小麦の粉で作られていた。使った残りの「もうち」は大根を切って真中に小さな穴をあけた中へ入れておき、乾燥を防いだ。
それでも、雪の日は何だか胸がわくわくして、元気に外へ飛びだしていった。雪合戦、雪だるまや雪うさぎ作りは、今の子どもたちもやっている。ただ、当時は、手袋もなかったので、手に草履をはかせて雪を固めた。
学校の庭には、雪を固めて作った小山がいくつもできた。表面がテカテカに光った雪の小山に登っては滑り降りるのである。あんまり沢山作ると、運動場として使えなくなるので、先生に叱られたこともあった。
雪が柔らかく積もっている所へ、そっと顔を押しつけて顔の型ができるのを楽しんだこともある。竹を半分に割った中へ雪をつめこみ、中心に箸などの棒をさしこんでキャンデーを作ったりもした。それへ、梅干しの汁をかけ、色と味をつけて食べた。
雪つりもした。これは、木綿糸の先に雪をかたく握りしめて付け、雪の上へチョンチョンと落としていくと、しだいに丸く大きな玉になっていくので面白かった。学校まで糸を持っていき、帰りに誰がいちばん大きな玉になるか競争したりした。
田んぼには、氷が厚く張っていた。そこへ持って行った板ぎれや木の箱の上に乗って滑った。これは、もちろん雪の上でもした。板ぎれや箱に綱をつけて引っぱってもらうこともあった。
池の氷の上でも滑った。池は、真ん中に行くほど氷が薄くなっており、それが割れて水の中へはまる者もいた。
手洗い鉢や汲みおきの桶の水も凍って、分厚い氷になっていた。それを取ってきて、坂道などで乗って滑ったりした。
藁ぶき屋根の廂には、一尺もの太くて長い氷柱が垂れさがった。これを「カナンボウ」と言っていた。それを折りとって噛ったり、刀に見たててチャンバラごっこをしたりした。
こぼち
冬休み中の男子の遊び。雀やほおじろを傷めないで生けどりにする罠のこと。雪が降って、野原にエサのない時ほど捕獲する率が高かった。
図のように、竹と木片を用いて、横20センチ縦30センチくらいの四角い枠をつくるのだが、これは上級生でないと難しい。
この枠の内側に稲穂を垂らし、その真下の地面には鳥が入るだけの穴を掘り、周囲に稲の藁を敷いておく。鳥が来て、この稲穂をついばんだとたんに枠が落ちる仕掛けになっている。
スズメとり
図のように、「ふるいとおし」を立て、下にはモミを撒いておく。物陰に隠れて、スズメが近づいてくるのを待ち、モミをついばみに来たスズメが、真下に入った瞬間、つっかい棒にゆわえた紐を引っぱり、「ふるいとおし」を落してスズメを生け捕りにする。
うさぎ狩り
大正から昭和の初め頃まで、鵤の大人たちは、冬になると必らず2、3回は兎狩りをする習慣があった。斑鳩山、瓦屋の山の裾野に網を張って、そこへ山兎を追いこんで捕えた。
子供たちは、それを真似して、兎狩りと言っては竹や木の枝を持って山をかけめぐった。大人から聞いた話を手本に、上級生が芒や「ぶしゃがき」の小さい枝が横に這っている附近などをかき分け、兎の糞がコロコロところがっているのを探し求めた。
そうして、高さ1メートル長さ50メートルくらいの網を張り、大勢の子供たちが「セコ」になって、竹や棒で草木や地面を叩き、「ホーホー」と言いながら兎を追いたてた。兎は直進する習慣があるので網のなかへ自分から跳びこんで行く。網の目は10センチくらいと大きいが、丁度うまく兎の首が引っかかった。山兎は、ネズミ色の毛をしているので見つけにくかった。
網を張った両端には、上級生が2人くらい見張り番をしているのだが、うっかり兎を逃がしたりすると、「ひょうろく玉」、「がいろく玉」と言って団長などに叱られた。
兎狩りは、当時の大人と子供たちにとって、最高に楽しい遊びであった。兎を追った辺りは、今は住宅地となってしまった。
しじみとり
冬は日が短く寒いので、家の中やカド先で遊ぶのが普通だが、学校が休みの暖かい日には、米洗川の川尻(小松屋尻)でシジミとりをした。小潮の時にはあまり採れないが、代わりに青海苔が波について浮き寄ってくるので、それをすくって採った。
また、霞ケ浦遊楽園の岸壁にくっついている牡蠣を採ったりもしたが、子つぶだった。しかし、これは鶏のエサになるので、鶏を飼っている家の子らは、一生懸命に採った。
浜に落ちている貝殻を拾い、先をこすって穴をあけ、プープーと吹き鳴らして遊んだりもした。
青海苔をアラレやカキモチに入れると、芳ばしい香りがして美味かった。だから、「今年も採ってこい」と親から言われた。
その他
自然との触れ合いの中で、子供たちが繰り広げた遊びは、バラエテイに富んでいて枚挙にいとまがない。これを細かく説明していけばきりがないので、以下、箇条書きで列挙する。