羽津の昔「人生儀礼」
1.産育
(2)出産
出産することを「まめになる」といった。出産は、納戸などの薄暗い部屋で行なった。布団の上へ渋紙を敷き、更にその上へ藁灰を入れた「灰布団」を重ね、そこヘペタンと腰を下ろして座り、天井から吊された紐につかまって出産した。いわゆる「座産」である。現在のように寝たままの姿勢でお産をするようになったのは、大正末期から昭和の初めにかけて以降のことであり、それまでは全て座産であった。
陣痛がおきると「塩釜さん」という神さんに「おひかり」―燈明のこと―をあげ、それに塩と水を供えて安産のお祈りをした。「塩釜さん」というのは、出産の際に臨時に祀る神であり、神棚の横に置かれた。大抵、子供が生まれてくるのは満潮の時であるといわれていたので、その潮の干満を支配する「塩釜さん」を祀ることによって、安産を祈願したのである。
妊婦が「ケづく」、つまり陣痛が始まると「抱き女」という予め頼んであった人がきて、天井から吊した紐につかまった妊婦を背後から抱きかかえ、腹の上部をしめつけるようにして、妊婦を励ましたり、いきませたりした。もちろん、この時には、「とりあげ婆さん」も来ていて、出産の介助に当たっていた。お産にあたっては、妊婦が陣痛に苦しんだあげく、障子の桟が見えなくなるくらいにならないと子供は生まれてこないといった。
後産のことを「ヨナ」といい、「ぼつこ」―ボロ布のこと―にくるみ、三昧の空き地を深く掘って埋めた。このヨナの上を最初に通ったものを、生まれた子は恐れるといわれた。たとえば、ミミズが通ればミミズを、ヘビが通ればヘビを恐れるといわれたものである。だから、親にたてつく子になるといけないといわれ、父親が埋めにいったときは、何度もその上を踏みつけた。
無事に赤子が生まれると、産湯につけるが、それに使ったあとの湯は、家の北西の隅を掘って埋めた。また、家によっては、便所に捨てることもあった。
「ヘソの緒」は、生まれた子の生年月日を書いた桐の箱に入れておき、本人が死んだ時に棺の中へ入れてもらうことになっていた。この「ヘソの緒」は、本人が高熱で苦しんだ時に煎じて飲むとよいといわれた。また、「ヘソの緒」が早くとれた子は、「まめ」に育つともいわれていた。
出産の際に、夫が家にいると子が生まれないといい、家の外へ追い出されたりした。しかし、最初の子の時に家にいた場合は、次の子の時も家にいないと生まれないといわれた。
初産のとき、大抵の妊婦は実家へ帰って出産し、第二子以降は、婚家で出産したものである。また、初産の時には「乳もみ婆さん」に来てもらい、「乳ごろ」―しこり―を解いてもらった。この時の最初に出てきた黄色い母乳を赤子に飲まさないと赤子の毒がおりないといった。
この最初の母乳をのませる前に「ごこう」という「とりあげ婆さん」の持っている薬に、砂糖を混ぜて湯で溶いたものを赤子に吸わせた。これも毒おろしであった。このようにして出てきた胎便を、「カニババ」と言った。母乳がたくさん出て余った時は、絞って家の壁や庭木にかけたり、または人の踏まない場所へ撒いたりした。「乳もみ婆さん」は、「とりあげ婆さん」が兼ねている場合もあった。
早産を「月足らず」という。妊娠8ヶ月で生まれた子は育つが、9ヶ月の子は育たないといった。また、「7月生まれの子は親にそわん」といい、親に先立たれるか自分が先に死ぬかするといわれた。そのため、7月生まれの子は、箕に入れて、一旦ゴミ捨て場や道の角などに捨ててから拾ってくるという習わしがあった。こうした捨て子をする習慣は父親が42才のいわゆる厄年に生まれた子の場合にもあって、道ばたや橋のたもとに捨てた子を、前もって頼んでおいた人に拾ってきてもらうということをした。しかし、これは極めて形式的なものとなっていて、拾ってきてもらった人を「拾い親」とし擬制の親子関係を結び、深いつきあいをするということはなかった。
出産を終えたあと、一週間、産婦は産室にしていた納戸から出てはいけないといわれた。また、この期間中、産婦の食事は家人とは別の鍋で煮炊きをし、別の茶碗で食べさせた。いわゆる「別火」の名残りであるが、竈の火まで別にするということはなかった。産婦は、「赤ズイキ」を食べると古い血がおりるといわれ、もっぱらこれをオカズにした。あるいは、母乳がよく出るといって、白ミソでつくった「鯉汁」を飲んだ。そのため、「仮屋祝い」―出産の祝い―として、鯉やカレイを親戚などからよくもらったので、出産のあった家の庭先には、鯉を泳がせたタライがおいてあった。
産婦は、産後75日、最低でも33日までは動いてはいけないといわれていたが、農事の関係でそんなに長くは休んではおれず、2週間もたてば家の中の仕事をやりはじめたものであった。ただ、1週間は竈にふれてはいけないし、33日までは宮参りをしてもいけないと禁じられていた。また、川には神さんがいるので橋を渡ってはいけない。さらには何故か知らないが髪を洗ってもいけないといわれていたので、そのことだけは守っていた。
仮屋祝い
出産後七日目に 「仮屋祝い」―サンド祝いともいう―をした。この日、餡入りの「仮屋モチ」をつき、婿方から産婦の実家へ持っていった。男児の生まれた場合は黄白、女児の場合は紅白の二色でつくったモチであった。産婦の実家では、このモチと「強飯」を仲人をはじめ親戚間に配った。「おこわ」まで一緒にくぼるのは第一子の時だけで、第二子以降はモチだけというのが普通であった。
この「仮屋祝い」の日には、赤子をとりあげてもらった「とりあげ婆さん」をよび、赤子の化粧をしてもらった。そして、額に男の子の場合は黒い「ちょぼ」―小さい点印―を一つ、女の子には赤いのを二つ付け、この日のために作った膳の前に座らせ、御飯や魚を食べさせるまねをした。
この時に出された膳の料理は、「とりあげ婆さん」に持って帰ってもらうことになっていた。
「仮屋」というのは、出産のための別小屋で、古くは出産にあたり臨時に設けられたものであったとされている。他の地方では、この小屋のことをウプヤ、タヤ、デべヤ、タビゴヤなどと呼んでいる。当地区でも、「仮屋」という名が残っている以上、かって別小屋を設け、そこで出産し、また産の忌の期間中、この小屋にこもって産婦のみが別火生活を送るという習俗があったことが推測される。それが記憶され、仮屋が納戸へと移行した後も、名称だけは残存したのであろうと思われる。「サンド祝い」のサンドも、出産する場所の意であるが、妊婦のことをサンドともいっていたというのは「産人」つまり出産する人という風に理解していた面もあったのだろう。