羽津の昔「人生儀礼」

1.産育

(3)育児

七夜祝い

産婦は、出産して33日目には、実家から婚家へ生まれた子を伴なって帰ってきた。これには、必らず産婦の母親が付添ってきた。その際には、実家でつくった餅を持ってきた。これを「七夜餅」といい、もらった婿方の親戚に配った。また、この夜、婿方の家では、親戚に寄ってもらい祝宴を開いた。

これが「七夜祝い」である。33日もたって、何故「七夜」というのか。それは、本来、「仮屋祝い」が「七夜祝い」であったのだが、産婦が実家で出産するために、婿方ではこれができず、産婦と赤子が戻ってくるのを待って、はじめて赤子をその名前と一緒に披露し、親族の一員としての承認と祝福を受けるための祝宴をしなければならなかった。このため、「七夜祝い」という呼称と実際の日数に誤差が生じたのであるが、「七夜」ということに特別の意味があって、この呼び方を残したものと思われる。

尚、子供の名前は、昔も2週間以内に役場へ届け出なければならなかったので、この「七夜祝い」の時には、すでに子供の名前は決まっていた。おそらく「七夜祝い」は、名付けの祝いでもあったのだろう。名前は、ふだんから懇意にし、また尊敬している人に付けてもらうこともあり、これを「名付け親」と呼んだ。が、これも前出の「拾い親」と同じように、擬制親子の関係を結ぶということはなかった。

 

宮参り

百日目に宮参りをするという習慣はなかった。その代りに生まれた年の10月の秋祭りに、産着をかけた赤子を婿家の母親が抱き、産婦と一緒に宮参りをした。鵤は伊賀留我神社、羽津は志氐(で)神社へお参りをし、お祓いをうけた。そして、昭和に入ってからは、神社から土鈴をもらって帰ってきた。

秋祭りのあとで生まれた子は、翌年の七月の小祭りに宮参りをした。

百日目で記しておくべきことは、「百日目の一粒なめ」といって、生後百日目に、ごはん粒を一粒だけ箸の先につけて子に食べさせるならわしがあったことである。いわゆる「百日の食い初め」と他所で言われている習俗がこれにあたっており、育児の上で百日目は、離乳に向けて一つの区切りなり目安なりを付けるものとして、重要なものであったことを示している。

 

初節句

女の子は3月3日、男の子は5月5日の生まれて初めての節句のこと。これらの日、女の子は、母の実家からお雛さんを祝ってもらった。当時は、小さなケースに入った「一人雛」だけで、今のような雛檀に飾られた立派なものはよほど富裕な家でないとなかった。もちろん、「一人雛」さえも祝ってもらえない家も少なくなかった。

男の子は、鯉のぼりと鍾馗さんを描いた旗を祝ってもらった。しかし、ほとんどの家は紙製の鯉のぼりで、風車はついていたが、吹き流しなどはなかった。

鯉のぼりは、これまた母の実家から、のぼり立て(株つきの孟宗竹が多かった)と一緒に祝ってくるならわしで、長男ならば大抵の家はこれを立てた。

 

誕生祝い

誕生の祝いはなかった。家によっては、男の子の場合、でんでん太鼓をもらう程度であった。昔は、数え年で年齢を読んでおり、正月が来て年が明けたら、家のものみんなが一緒に年をとったのであり、今のように個々に年をとる誕生祝いの観念はなかったのである。ただ、誕生祝いの前に赤子が歩くと、親の命をとるといって忌まれ、誕生日にボタモチを作って尻に投げつけることをした。

また、現在、各地で華やかに行なわれる七五三の祝いも当地にはなかった。

 

子守り

赤ん坊を入れておくものに図のような「イサ」というのがあった。これは藁で編んだもので、底に籾殻を入れ、その上へ「すくだ」―藁くず―を敷き、さらにその上へ「灰袋」を重ね、そこへ赤ん坊を座らせ、まわりにボロ布を詰めた。また、「イサ」の下に竹の棒を入れて前後にゆすり赤ん坊をあやすこともできた。

この「イサ」は、主に家の中で使用し、誕生日が過ぎる頃まで赤ん坊はこの中に入っていた。

野良仕事に出る時は「フゴ」の中へ赤ん坊を入れていった。

大正の初めより、ハンモックが市販されていた。このハンモックの真ん中に板を敷き、赤ん坊をのせて寝かせたり、あやしたりもした。ハンモックは、夏場に使用するものであった。

釣り乳母車がみられるようになったのは、大正末ごろからである。それまでは、鉄の車体に木の枠を直にのせた乳母車であり、車輪も鋳物製でゴム輪はついていなかった。そのため、ちょっとした衝撃で輪が折れてしまうことが多かった。子供が少し大きくなると、乳母車の箱から出てしまうので、箱の上に竹の囲いをつけて、それを防止した。

子を負う帯はなく、ふつうの着物の帯で赤ん坊を背負って仕事をしていた。そして、外出する時は、その上へ「子守りばんこ」を羽織った。

少し大きくなった兄姉がいる場合、たいてい子守りは彼らの役目であった。だから、赤ん坊を背負って遊んでいる子供たちの姿があちこちに見られた。また、農繁期などで忙しい時には、「モリコ」という近所の女の子を雇って子守りをしてもらう家もあった。

昔の赤ん坊は、よく胎毒ができた。それを予防するために仏壇屋で使う金箔を買ってきて、その粉を飲ませた。癇の虫封じには、正法寺へおがみに行ったし、羽津の丸薬ともいわれていた「鎮驚丸」を飲ませたりした。夜泣きをする子には「孫太郎虫」という百足を小さくしたような虫を行商人が売りに来たので、これを飲ませたりした。

昔の子供たちは、今の子供たちと比べると、みんな汚なかった。身なりはもちろんのこと、顔や手足にはかさぶた、あかぎれ、しもやけ、胎毒、できもの、など色々なものをこしらえ、よだれや鼻汁をしょっちゅう垂れ流していた。それにもかかわらず、「どろばな」―泥鼻汁―を垂らしている子は丈夫であるなどと言って、寧ろ喜んでいた。