羽津の昔「人生儀礼」
1.産育
(5)厄年と年祝い
厄年とか年祝いの習慣も、昔はなかった。阿倉川の方ではやっていたというが、羽津では聞いたことがない。
ただ、鵤では、大正の末ごろから、1月7日の「初寄り合い」の日に、男25歳と42歳それに61歳の「本家がえり」の村人、および他所へ転居したもの、養子など村へ転入してきた「入りびと」たちが伊賀留我神社へ御神酒、御饌米、塩、海の幸、山の幸をお供えをするとともに、神主より厄払いの御祈祷をうけることになっていた。
また、25歳の者は酒一升、42歳の者は大厄であるので財産に応じ各自が牛飯か「かしわ飯」、それに饅頭、餅、酒など、61歳の者は、たつくり、数の子、黒豆、とのいも、人参、れんこんなどの煮物、それに酒を用意して、村の人たちに振る舞うことになっていた。この場には、77歳の喜寿祝いの人や銀婚式を迎えた夫婦らが祝いとして酒を出すこともあった。
戦中の物資不足の折には、こうした豪勢な振る舞いはできず、略式でうどんだけを振る舞うということもあった。戦後は、物資の窮乏に加えて冠婚葬祭の改善命令もあり、3ヵ年中止となったが、その後復活した。
現在も続けられているが、昔と比べてかなり質素化し、パック入の寿司や煮物が振る舞いに用いられるようになり、その代りとして、公民館への用度品の寄付や神社の什物の奉納が行なわれるといった傾向に変ってきている。
女性の場合、19歳と33歳が厄年に当たると言われていたが、厄を払うための特別なことは、鵤でも羽津でも行なわれなかった。ただ、女性が33歳のときに男児を出生すると「厄に勝った」と言った。