羽津の昔「人生儀礼」
2 婚礼
(1)相手の決定
昔は、見合い結婚が多かったが、恋愛結婚も決して少なくはなかった。
当時、「娘あそび」というのがあって、年頃になった男たちは、集団で娘たちの集まっている家へ遊びに行った。そういう年頃になった娘たちの集まる「娘宿」というべき家があり、娘たちはそこで藁を打ったり縄を綯ったりしていた。
そうした家は、羽津の村内にかぎらず、小杉、垂坂、北鵤、茂福などの近村にもあって、若者たちは遠征していった。そこで知りあい、好きあった者どうしが結婚することになる。恋愛結婚と同じである。
特に、富田では秋になると地引網が始まり、羽津の若い衆たちも綱引きを手伝いに行った。そして、そこへ来ていた富田の娘さんを「かつぎ出し」てきて一緒になるというケースも生まれた。富田の方でも遊びにいくと、親たちが喜んで歓待してくれた。また、村内はもとより富田を初め他所の盆踊りに若い衆が出かけていくことも多く、そこで知りあった者どうしが結婚することもあった。
また、垂坂の五島製糸などの寮へ行き、口笛を吹いて寮にいる女工さんを呼び出し交際することもあり、あげくに結婚するということもあった。このように、概して昔の男女交際は本人たちの自主性に任せられており、自由で大らかな面もあった。
好きあった者どうしが一緒になりたいと思っても親が許さない場合は、駆け落ちという非常手段に訴えることもあった。この場合、友人や兄弟が唆したり手助けをしたりすることも少なくなく、また結婚に賛成している一方の親が駆け落ちを勧めることもあった。駆け落ちすると、一旦親子の縁は切られ勘当の身となるが、大抵は子供ができると許された。
見合い結婚の場合は、仲人を頼まれた人が「嫁見」をした。年頃の娘たちは、羽津小学校の中にあった裁縫教室などへお針を習いにいったものだが、そうした所へそっと娘さんを見に行き、気に入った場合、その縁談を勧めたのである。仲人は、たいてい婿方が立てたもので、仲人になる人は「仲人口」といって、あまり正直すぎてもいけないし、口先三寸というのも駄目であった。つまり、適当に嘘や上手を言いながら、両家の縁をとりもつ技倆が仲人の条件であった。
尚、縁談を持ち込むことから始まり、結婚を成就させるまで両家の間を往復して世話をする仲人を「本仲人」といい、結納までの橋渡しをするのを「下仲人」、結納のとりかわしから結婚式の終るまでの仲人を「坐り仲人」とか「据え膳仲人」といった。
尚、恋愛結婚のことを「好き寄り」といい、その夫婦のことを、「好き寄り夫婦」などとも言った。
見合い結婚の場合、当人同士が事前に顔を合わせることもなく、結婚式の席で初めてお互いを知ったというケースも少なくなかった。縁談が親たちの意思だけで決められることが多かったからである。