羽津の昔「人生儀礼」
2 婚礼
(4)婚礼以後
里帰り
里帰りのことを「かよい」という。婚礼を終えた三日目に嫁は実家へ戻り、-晩だけ泊って帰ってきた。このとき、行きには姑がついていき、帰りには嫁の母親が一緒についてきて(これを「嫁送り」という)、婿方の隣組や親戚へ風呂敷などを手土産に挨拶してまわった。
里帰りの日、嫁の実家では祝いをもらった隣近所や親戚に「おこわ(赤飯)」を配ったものである。この「おこわ」を婿方では婚礼の翌日に配るのだが、このときの「おこわ」は白色で黒豆を上に散らばせ、しかも重箱につめた一隅をくちなしで黄色く三角形に染めてあった。これと鶴や亀の形をしたまんじゅうを一緒につけて配った。このときの「おこわ」を「ミツメのおこわ」といった。
マナイタばらい
婚礼の日の祝宴に、人数の制約があるために列席してもらえなかった親戚やつきあいのある家の主を招き、別個の祝宴を婚礼の翌日の夜に開いた。これを「マナイタばらい」という。つきあいの多い家では、この「マナイタばらい」が何日も続くことがあった。これに出される膳は、婚礼の膳よりは、いくぶん中味が落してあった。
こうした宴席に招かれる家では、婚礼に当たって祝いの品を納めたが、それには「折」という外側が朱塗りで、内側が黒塗りの箱に詰めた鰻頭を持っていくのが通例であり、現金でというのは稀であった。つきあいの濃い家では、「折」を一荷―六十個人り―というのが相場であった。
尚、婚礼の翌日の昼、「お茶のみ」と称し、近所や手伝いに来てもらった親戚の女の人たちに寄ってもらい、茶菓子を食べてもらうのと一緒に、花嫁の持参した道具や衣裳を見てもらうというならわしもあった。
その他
最初の里帰りのあと、嫁が実家へ帰れるのは、盆と正月、それに農繁期に入る前くらいであった。
尚、嫁は初めての盆の日には、婿方の親より、普段用の着物をもらったもので、これを「ぼんご」といった。また正月に実家へ戻る時には、二飾りの鏡餅を持っていき、帰ってくる時には実家より一飾りを持ってきた。
離婚のことを「ふえ(不縁)になる」といい、離婚された嫁を「出もどり」とか「出も」といった。
入籍は早くなく、子供ができないと籍を入れないことも多かった。早くても、半年ぐらいたってから入籍することが普通であった。
子供ができないために離縁されることもあり、子どもがなくて夫と死別した場合も実家へ戻されることがあった。離縁のときには、嫁が持ってきた道具も一緒に返された。
ただし、子どもがあった場合は、そのまま婚家に残ることが多かった。未亡人の再婚は少なかったが、時には、死別した夫の弟と再婚するという「逆縁婚」もあった。
結婚は、在所同士か近在の家というのが多かったが、ただ、何故か茂福の者との結婚は敬遠されがちで、あの村へ行くと後家になるなどといった。特に別名あたりでは、茂福との結婚は嫌われていた。そうはいっても、結婚はあくまでも縁のものであって、茂福だろうと何処だろうと行く者は行き、来る者は来たのであった。
羽津は、昔から働きものの集りといわれ、そのため結婚にあたっては 「羽津へ行くか地獄へ行くか」とか、逆に「嫁をもらうなら羽津からもらえ」 などと他村からいわれていた。