羽津の昔「年中行事」

 

一月

正月

元日には、家の玄関先へ注連繩(しめなわ)を飾るが、これは家で綯(な)った。綯い方は、三つ縒りの左繩で、初めに2本を綯い、そこへ「添え」といって1本をあとから綯った。綯うときに、唾をつけてはいけないといわれ、水を使った。綯いあがると、そこへ半紙を切って作った「御幣」を下げた。
飾り方は、「出船入船」といい、宮さんの注連繩は株が右、民家のは株が左を向くようにした。鵤の宮さんの注連繩の中央には、串柿、だいだい、ゆずりは、うらじろ、それに堅炭を半紙に巻き麻でくくったものが飾りにつけてあった。

 

鵤の宮さんの大鳥居と中鳥居にかける注連繩は、7人がかりで、また、手洗い所や拝殿前などへの小さ目の注連繩は2人で綯った。
注連繩は年の暮れに綯うが、その年に子供が生まれたり、死人が出た家はこれを飾ることを忌まれており、とくに宮さんの場合は、たとえ「宮守り」に入っていても、これを作ることに従事することはできなかった。注連繩の中央の部分のふくらんだ種類のものを「はらみざっこ」というが、それは卵をはらんだ魚の名で、形が似ているからそう呼んだものと思われる。「はらみざっこ」は、前の浜でよく獲れたものである。
この注連繩を個々の家に飾るようになったのは、昭和に入ってからで、昔の羽津の農家では、これを飾るようなことはしなかった。

門松は立てないのが普通で、代わりに仏壇に松の芯を水仙や南天と一緒にあげた。因みに、仏壇へ松を供えるのは正月に限っており、盆は槇か鬼灯で、普段は「びしゃがき」を花の後ろ立てに用いた。
門松を立てないのは、真宗のいわゆる神祗不拝の教えに則ったものだろうが、同じ真宗でも鵤では門松を立てたという。

鵤では、門松切りは天下御免といわれ、どこの山で切ってきてもよく、12月25五日から31日の間に山へ行き、雌雄2本の松を切ってきた。これに梅と竹を添え、山の砂で根元を固めて門先へ立てるのだが、雄松は向かって右、雌松は左へ立てるのが習わしだった。
伊賀留我神社に立てる大きな門松は、宮守青年団が12月25日に切ってきて、その日に飾ることになっていた。
松を切る場所は、南山か瓦屋山、それと北山か浄恩寺山を毎年交互にすることと決めていた。この門松は、一の鳥居、二の鳥居、社務所前と拝殿前に立てたが、一の鳥居のものが一番大きかった。
尚、拝殿の前に立てる門松は右図のような少し形の異なるものであった。そして、この門松の中央に飾られた「はらみざっこ」の注連繩の串柿は、年が明けて一番に参拝した人が持ち帰ってもよいとされており、その人には一年中の除災招福が約束されると伝えられている。

 

神祗不拝と言いつつも、鏡餅(お鏡さん)を御神酒と一緒に神棚に供えることは忘れなかった。鏡餅は井戸神さん、荒神さん(クド)、米びつ、農機具などにも供えたし、仏さんにも供えた。仏さんの鏡モチは、とくに、「おけそく」と呼んだ。

正月早々から、ながたん(庖丁)や箒は使うなといわれていた。だから、正月料理(オセチという)は暮れに作っておいたし、掃除も済ませてあった。もちろん、雑煮に入れる野菜も刻んでおいた。
「オセチ」には、「マメでかずかず田を作れ」といい、煮豆(黒豆)、数の子、田作りを必ず作った。それに、蓮根、人参、牛蒡の煮しめなども作った。
雑煮は、溜まり味の汁に、鰹節と小松菜と角餅をほうりこんだだけのもので、元日の朝には必ず食べ、この餅を食べることによって1つ年をとることができたといった。
昔の数の子は、安価なもので、「ほしか」という「かます」にはいった鰊粕の肥料の中にも沢山混じっていて、これを択びだして食べた。この肥料は米作に用いたもので、従って田植えなどに行くと水面に数の子がいっぱい浮かんでいた。

初詣は、現在、伊賀留我神社へ参る鵤町以外は、志氐神社へ詣でることになっている。が、志氐神社への合祀が行われる以前は、一区の白須賀は神明社(明治41年合祀)へ同じく一区の八幡と田市場は八幡神社(明治41年合祀)、五区(別名)は長谷神社(明治42年合祀)、六区(鵤)は現在と同じく伊賀留我神社、そして志氐神社へは二区、三区、四区の住民たちが参拝した。
元日の午前零時をはさんだ「年越し参り」に行くと、氏神さんの境内には大きな篝火が焚かれており、この火にあたると病気しないといわれている。
また、家の中の神棚に祀ってある神さんにもお参りをしたもので、神棚に納めてある氏神さんと伊勢神宮の大麻は一年毎に新しいものと取り替えた。この大麻を、今は金を出すが、以前は米一升で貰い受けてきた。

 

新年の挨拶まわりを「年頭」もしくは「年始」と言うが、大方は「年頭」と言っている。「年頭」にまわる範囲は特に決まっていない。隣近所だけで済ませることが多かったようだ。大抵は、玄関先で挨拶して帰り、上にあがって屠蘇をよばれてくるのは稀であった。
鵤では、小作人は庄屋様(地主)のもとへ挨拶に行き、屠蘇をいただいたあと燐寸か手拭をもらって帰るのが通例であった。また、新婚夫婦は仲人の家へ2人揃って挨拶に行った。

雑煮による朝食を済ませた後、「おてつぎ」の寺へ初参りをし、住職と奥様に年頭の辞を述べ、御仏飯として米一升を置いてきた。
嫁は、正月の2日には、子供を連れて里帰りをする。これを「セチに行く」といい、嫁が正月に姑よりもらう着物を「セチゴ」といった。

 

小学校では、新年祝賀式が行われ、来賓として村長、学務委員、村の駐在や篤志家、それに白い鳥の羽根をつけた帽子をかぶり軍の礼服をつけた陸軍大尉や中尉が出席した。

 

お年玉をもらうようになったのは、大正の終わりか昭和の初めからで、1~2銭もらえばいいほうであって殆んど貰わなかった。そもそも、お年玉という言葉もなく、「正月のこづかい」と言っていた。

 

昔、牛馬を所有している家は少なかったが、車力を商売にしている「牛車ひき」の家では、牛馬の首と背中に赤い色をした布をつけ、牛の角にも赤い布を巻いて正月を祝った。

 

正月には、どこから来たのか分からないが、烏帽子をかぶり鼓を持った三河万歳の姿をしたものが、三人組でやってきて門付けをした。村では、これを「乞食万歳」と呼んでいたが門付けにくると何がしかの銭を出した。
太神楽の獅子も門付けにまわってきて、正月に色彩りをそえた。

 

1月2日には、娘さんのある家では、「買い初め」といって、四日市のオカダヤ(今のジャスコ)あたりへ「福袋」を買いに行った。これは大盛況で、元日の晩から並んで待っている者も沢山いた。福袋の値段は一円で、中には前年の売れ残りの反物などが入っていたが、買って中を見るまでは何が入っているのか分からず、却ってそれが楽しみであった。
この日、小学校では「試筆」といわれる書初めが行われた。

 

1月3日

正月は、「三日正月」といい、この日いっぱいで終わった。正月の3日から以後、各家では「報恩講のおとりこし」といって、ごえんさん(御院主)を招いてお勤めをする行事が行われたもので、これは現在でも続けられている。

 

お鏡がえし

鵤では、この1月3日に、「お鏡がえし」といい、大晦日に神社へ各戸が奉納した鏡餅の下飾りの部分が、宮守りの手によって各戸へ返されてきた。それには、村方より奉納した二升どりの大きな鏡餅を小さく切り分けたものが一緒に添えられてあった。
これは、現在も続けられているが、いつごろからか上飾りの方が返されてくるようになった。

鵤は3日の日だが、羽津では各戸が志氐神社へ奉納した二重ねのお鏡さんの下飾りの方が、1月4日にそれぞれの家に返されてきた。これには、宮さんの小使いをしていた人が、家々を回って一つずつ返していった。
返された家では、このお鏡さんを特別にどうこうするということはなく、ふつうの餅と同じように食べた。

 

七日正月

1月7日を「七日正月」といい、大抵の家ではこの日に正月の飾り物を取り外した。また、羽津の各区において組頭会の「初寄合い」が開かれ、区長によって前年の会計報告がなされるとともに、その年の行事計画や予算が立てられた。

鵤でも、この日に村の初寄合いが開かれた。そして、会計報告や事業計画などが話し合われた。また羽津用水のいのと(樋門)番や溜池からの水路を管理する「いまり(湯まわりのこと)」の役を決めるなどした後、伊勢神宮へ代参する者2名をくじ引きで決めた。くじ引きは、それまでに代参に行ったことのない者たちの間で行われ、当たった者は必ず2月10日までに伊勢神宮へ参拝し、御札を受けてこなければならないとされていた。
その理由は、後項に掲げるような「日待神事」を行う宿を2月10日に決める際に、伊勢神宮の御札を必要としたからであるが、昔は、もっと早く1月14日の「どんど」までに代参することとされていたという。

また、鵤では、1月7日に、この年に厄年に当たった人たちの厄払いが行われることになっている。

この日に「七草がゆ」を作って食べるものだとは、当地でも言われていたが、実際にこれを作ることはしなかった。

尚、旧吉沢村の場合「初寄合い」は2月17日の御鍬祭の日に行われることになっており、それが昭和30年頃まで続いていた。

 

どんど

鵤では、1月14日の夜、羽津では1月15日に盛大に行われたという。だが、近年、この風習は廃れ、阿下(城山)では、「どんど場」という土地の名を残すのみで、今は宅地となっている。しかし、かっては、この「どんど場」で大きな火を焚いたという。また、子供たちが書き初めをした紙を竹の先につけて炎にかざし、燃えた紙が高くあがっていくと字が上手になると言ったという。
この火で餅を焼いて食べると中気にならないともいった。

二区では、現在の農協が建っているあたりに、三角形の空地があって、そこで1月ではなく2月の14日にどんどを焚いた。これには、小学校に飾ってあった正月の大きな門松を心柱にし、そこへ子供たちが集めてきた青竹や藁をたてかけて燃した。藁は各家より、「ひとぼうし」―8束を「ひとぼうし」といった―ずつもらってきたものだという。

鵤では、明治時代から大正末までは伊賀留我神社前で、大正末期から昭和の初めまでは米洗川原で「どんど」が行われた。これは、門松の松、竹、それに注連繩を3ヶ所に集め、神社に飾った大きな門松を中心に立て注連繩を飾ったとこへ火をつけた。このときの炎が大きければ大きいほど、その年に病人や死人が出ないといわれ、東貝戸、中貝戸、西貝戸の人たちは、どちらの炎が大きいか小さいかで、大人や子供たちが入り混じって喧嘩したこともあるという過熱ぶりであったという。

 

ホンコさん

親鸞聖人の命日をつとめる村の報恩講のことで、1月15日と16日の2二日間にわたり、「おてつぎ」の村で「同行づとめ」が行われた。

1月15五日を「お発夜」、16日を「お日中」、また17日を「おさらい」といった。これは、非常に盛大なお勤めであって、寺の縁側にはみ出るほどの人々が集まった。
そのため、光明寺の門前などには、香具師たちの店も並ぶほどの大賑わいであった。

また、この日、二区の子供たちは、講中の家を回り、それぞれの家へあがってお勤めをした後、菓子などをもらって帰ってきた。これは、かっては二区以外の村でも行われていたようだ。
更に、前年に嫁いできた新嫁さんは、髪を丸髷に結い紋付の羽織を着けた姿で、姑に伴われて「ホンコさん」の場へ行くことになっていた。「ホンコさん」の場が、新しくやってきた嫁を講中の人たちに披露し、また同行として認めてもらう場となっていた。