羽津の昔「年中行事」

 

3月

女の節句

3月3日を「女の節供」とか「桃の節供」といい、女児のある家では、雛人形を飾った。といっても、小さく質素なお雛様を一つ飾る程度で、今のような立派な段飾りは、よほど身上のいい家でないと見ることはできなかった。
一般の農家では、何も飾らない家のほうが多かったようである。当地においては、後述するように4月3日をもって「節供」と称し、寧ろそちらの方を重視していた。

 

小学校の学芸会

毎年、3月5日頃に、小学校で学芸会(これを談話会ともいっていた)が開かれ、父兄は仕事を休み弁当持ちでこれを見にいった。だから、当日、野良仕事に出ている人の姿は殆んど見られなかったほどで、学芸会は村の年中行事となっていた。
当時の児童数は400人ぐらいで、学校に講堂はなかった。そのため南校舎の3教室の仕切り戸をを外し、机は廊下に片付け、教壇を積んで作った舞台で児童らの劇(かぐや姫、花咲爺、猿蟹合戦などの昔話に材をとったもの)や合唱、あるいは高学年による理科の実験などが、次々と披露され、大人たちを楽しませた。

 

正法寺の寝釈迦

3月15日に、羽津山の正法寺で行われたもので、孫を連れたお年寄りたちが、大勢お参りをした。
いわゆる釈迦の涅槃会であり、本来は釈迦の入滅した陰暦2月15日であるが、月遅れで3月15日に行われていた。
当日、正法寺の本堂には釈迦の涅槃像が掲げられ、寺では参詣者に「はなくそだんだ」という菓子を作って配った。これは、青や赤、黄に色づけした塩味のだんごで、棒状にこねたあと薄切りにした円盤形のものであった。
子供たちは、一銭ぐらいの賽銭とひきかえに、「はなくそだんご」をもらうのが楽しみで、年寄りについていったが、大正末頃から、このだんごも姿を消してしまった。

 

天武天皇祀り

3月15日に鵤で行われた祭りで、村では「天皇さんの祭り」と呼んでいた。これは、天武天皇が壬申の乱のとき当地(迹太川辺)にて天照大神を遙拝されたことを記念する祭りであるといわれていた。
「天皇さんの祭り」は、後に記すように7月13日にも行われ、この両祭に限り、伊賀留我神社に立てる幟は「奉納天武天皇祭」と大書されている。(その他の祭には「奉納 延喜式内郷社 伊賀留我神社」と書かれた幟が立てられることになっている。)
この日、各々の家ではヨムギ(蓬)餅を作り、他所の親戚などへ配ったもので、子供たちもこれを楽しみにしていた。また、大人たちも仕事は午後から休みにしてそれぞれが神社へ参拝し、御神酒をいただいて帰った。
この天武天皇を祀る社は、天武天皇社といい、かっては糠塚山の麓の小字名「北山」の南に建てられていた。かなり大きな檜皮葺の本殿と拝殿、それに鳥居も建っていたというが、明治40年に伊賀留我神社への合祀によって、全て取り壊されてしまった。

 

春の彼岸

3月の「彼岸の入り」と「彼岸の中日」と「結願さん」の3回にわたって、「彼岸だんご」を作って仏前に供えた。これは米粉を練りあげ、いったん丸めたあと平たく円盤状に押しつぶしたものを「セイロ」で蒸しあげただんごであった。
また、この彼岸には、先祖の墓参りとともに「善光寺参り」をした。善光寺は四日市の駅西にあり、四日市周辺の人たちが沢山参詣した。寺の本堂の下では、「階段めぐり」といって、暗闇のなかを歩き堂の真下にかけてある鍵に触って戻ってくるということも行われていた。
寺の前には露天店が立ち並び、そこで「おたやん飴」やニッキ、竹ようかん、水ようかん、たつぼ(田螺)のおでんなどを買って食べた。

 

愛宕さんのまつり

昔、吉沢村の字北岡山(今のオークテックのところ)に、愛宕社が祀られていた。鳥居はなく、一間四方ぐらいの拝殿と、その背後には神殿とおぼしき小さなサヤ(佐屋)が建てられていた。
3月24日が、この愛宕さんの祭りといわれていたが、特別な行事といったものはなく、神主が社の前で祈禱をあげた程度であった。神主は、この日、愛宕さんだけではなく、村の鎮守社や邪軍神社(サンゴさんと呼んでいた)、山神社へも回って、同じような祭りごとをした。
愛宕社は、明治40年に志氐神社へ合祀となり、それによって社殿も取り壊されてしまった。