羽津の昔「年中行事」
4月
節句
4月3日は、暦の上では神武天皇祭となっていたが、当地では、この日を「節供」といっていた。おそらく、これは旧暦の3月3日の節供を意識していたもので、新暦となってからも昔の節供の日を実質的に残存せしめていたものと思われる。
その証拠に、この日「菱モチ」を作って、神仏に供え、また仕事も一日休んだ。この日に仕事をすると「ものぐさの節供仕事」といい、人に馬鹿にされた。
「菱モチ」は、臼で搗いた白モチの間に、ヨムギ(蓬)を搗きこんだ「ヨムギ餅チ」をはさんで三つ重ねしたものを菱形に切って作った。
また、この日には、「花相撲」といわれる大人たちの草相撲も行われた。場所は城山で、のちに志氐神社の参集殿の西の広場に変わった。それで、「宮相撲」と呼ばれるようにもなった。
土俵のところには、四本柱も立っていた。この四本柱は、村から草相撲の「頭取り」が出ることによって初めて立てることができた。羽津における最後の「頭取り」は、大宮町の早川音次郎さんであった。
この草相撲、昔は他の祭りの時などにも盛んに行なわれたが、大正の頃には4月3日の「花相撲」だけになっており、これさえも戦前には廃止されてしまった。
尚、この「節供」の日は、潮がよく引いて貝類がたくさん採れるといわれ、前の浜へ大勢が潮干狩りに出かけていった。
花まつり
4月8日は、正法寺の花祭りが行われ、「甘茶もらい」といって、それぞれに壜を持って行き、何がしかのお金をあげて代わりに甘茶をもらってきたも。もちろん、お釈迦さんの誕生仏にも甘茶をかけてきた。この正法寺の花祭りも、昭和に入ったころより、次第に小規模なものになっていった。
鵤の浄恩寺における花祭りは、戦後、当時の若住職の安田専譲氏によって始められた。この祭りに用いる白象は、菰野町にある父謙譲氏の実家の寺よりもらいうけてきたものといわれている。
祭りの当日は、浄恩寺で開かれていた日曜学校の子供たちが、こぞってこれに参加した。日曜学校は、明治時代より、北鵤、南鵤、斎宮の子供たちが正信偈をならうための場であり、現在もなお続けられている。
また、この花祭りの日にアヒルの卵を食べると中気(中風)にならないともいわれ、これを蒸し玉子にして食べた。アヒルの卵は、村の店でも売られていたし、アヒルを飼っている家もあった。
山遊び
山に桜が咲くころ、「山遊び」と称して、垂坂山などへ酒と弁当を持って遊びに行くものもいた。
この頃には、菜種の花も辺り一面満開で、物見遊山には絶好であった。
この「山遊び」は、五月のつつじが咲く頃にも行なわれていたが、「山遊び」に行くのは、他所の人や万古焼に従事している人たちが多く、その頃茶摘みに追われていた村の百姓が行くことは殆んどなかったと思われる。