羽津の昔「年中行事」

 

7月

七夕

7月7日を、「たなばた」ということは言ったが、取り立てて何をするということもなかった。

 

海開き

7月10日、霞ヶ浦海水浴場の「遊楽園」では海開きの行事が催された。村長を初め、多数の有力者がこれに参列し、花火も沢山打ち上げられた。

 

 

 

天王さんの祭

これは、「提灯まつり」ともいわれ、7月13日に鵤で行われた。
家々の入口には大きな御神燈の提灯が掲げられ、伊賀留我神社の境内や村内の2ヶ所に、「奉納天武天皇祭」と書かれた幟り屋形を立て、宮道や村の各戸には行燈や提燈が沢山飾られた。
その中には、表に御神燈、裏に子供中と印された長さが10mもある大きな高張提灯も立てられていた。
また、家々では蒸しモチやうどんを作って食べ、夜には小さい赤白の提灯を手に宮参りをした。
 
鵤では、この祭りを天武天皇の祭りだとしているが、これは、各地で行われた夏の疫病をはらうための「天王祭り」と同じもので、天王とは行疫神、除疫神の神格を持つ牛頭天王のことであったのが、たまたま当地と天武天皇との所縁が深かったために、何時しか同じ天王の音がつく天武天皇の祭りと曲解されていったものと思われる。
ちなみに、「天王祭り」は、祇園祭と称されている土地も多く、6月に行われる夏越の祓えの行事であるとともに、水の神をまつる水神祭でもあったとされている。

鵤においてこれを6月ではなく7月にしていたのは、新暦を採用した際のずれによるもので、陰暦を用いていた時代には6月に行われていたものと思われる。

 

小祭り

7月17日に行なわれる志氐神社の夏祭りである。これは大祭ではなく、いわば中祭に準じる位の祭りであったので、「小祭り」と呼んだものである。

この日、年番で字毎に幟りを立て、各戸では軒提燈を吊るした。また、各字から神社へ向かう参道には道提燈も立てられ、旧東海道の脇にある鳥居の両側には、大提燈が2つ下げられていた。夜には、神社で獅子舞の奉納もあり、大勢が参拝がてらに見物に行った。夜店も、ちらほら並んでいて、イカ焼き、綿菓子、氷の棒などを売っていた。

このような小祭りも、昭和の初めより各字の幟りや道提燈が立てられなくなり、次第に寂しいものになっていったが、近年は、再び新しく幟りを作って立てるようになってきた。

 

虫おくり

これは、年中行事というより農耕儀礼のひとつである。

これが行なわれる日は一定しないが、ほぼ7月20日頃ろに、昼間から各家では菜種殻と藁と竹を細縄でぐるぐる巻きにした大人用、子供用の松明(たいまつ)を作った。そして、夕食を早めにすませるとみんなが集まり、ホラ貝の合図で火をつけた松明を先頭に鐘、太鼓、駒笛を鳴らしたてながら、青田の畦道を大人と子供が一緒になって練り歩いた。こうすることによって、稲につく害虫を村の外へ追いやろうとしたのである。

したがって、虫送りの場合、虫が群がり寄ってくる松明の火を捨てにいく場所が重要であるが、鵤では米洗川の「ひせこし」――現在の別名六丁目の羽津用水と米洗川が交差したところで、亀戸といっていた。――附近が捨て場所となっており、ここには隣村の別名も捨てに来たもので、合流した両村の大人たちが、どちらの松明が先に着いたかで喧嘩したこともあった。
羽津の方では、霞ケ浦の堤防の西まで松明を捨てに行った。

尚、松明の元火は、神社よりもらってくることになっていた。

 

雨乞い

これも、「虫送り」と同じく農耕儀礼のひとつである。

7月末の夏の盛りになると、何日間もの日照りが続いて、田の水は干上がり地割れも生じ、稲が枯れそうになってくる。そんな時、早く雨が降るようにと「雨乞い」を行なったのである。

鵤では、夕方、村中の大人や子供が伊賀留我神社に集まり、大きな注連太鼓を四人で担いでこれを叩き、あるいは笛を鳴らしながら、班鳩山(浄恩寺山)へ登っていった。子供たちも小さな赤白の提燈をつけて一緒に続いた。山の上(現在、天武天皇遙拝所の石碑が立っている)には「腰掛松」という老松があり、そこへ太鼓を据えて叩きながら、みんなで「さあ-さあ-降れよ さあ-降れよ-さ だらだらだ-ら-よだらだらだ-ら-よ」と天に向かって何回も大声で繰り返した。
この雨乞いの効験あって雨が降った場合は、みんなで大喜びをし、その2日後には、「雨の祝い」が神前で行なわれ、仕事も一日休み、村中でこれを祝った。

また、この雨乞いをしても雨が降らない時には、代表者数人が多度神社の御幣(金幣、銀幣、白幣と位があった)を受けに行ったもので、この御幣をうけて帰る途中、休憩にと立ち留まった地点に雨が降ると言われていた。そのため、一度御幣を受けたならば、そのまま自分の村まで一休みもせずにリレー式で持ち帰った。

羽津の方の「雨乞い」は、志氐神社で行なわれ、村人たちが本殿と拝殿の周りをぐるぐる回って雨を乞うたもので、字によって並ぶ順位も決まっていたという。

このような雨乞いも、大正10年頃に行なわれたのを最後に、見られなくなってしまった。

 

弥三郎まつり

7月29日、白須賀で行なわれていた祭りである。

これは、明治の初め頃、同地の服部弥三郎さんという人が前の浜へ流木を拾いに行った際、海岸に打ち寄せられた神があるのを見つけて持ち帰り、当時の白須賀の村社であった神明社に祀ったことに由来する。祭日の7月29日は、この神を拾って来た日であると言われている。
この漂着神は尾張の津島さんであると伝承されていたらしいが、それが如何なる形をしており、あるいは何をもって津島さんと認めたかは不明である。

この祭りの日、白須賀では、各戸で蒸し餅を作って、近在の親戚に配った。白須賀は、旧八幡村のデゴ(分郷)であり、そちらに多くの親戚があったので、これらの親戚に配ったり、また家へ招いて膳を振る舞ったりもした。そして、この振る舞いの返しとして、8月24日の八幡の地蔵盆の折に、今度は白須賀の方が八幡へ招かれていった。
この祭りも、昭和5、6年頃より行なわれなくなった。

昔、白須賀の人たちは、よく前の浜へ出て、燃料にする流木を拾い集めに行ったもので、特に台風の後には、木曽川から流されてきた樹木が沢山海岸に打ち寄せられていた。もちろん、そこには木ばかりではなく、色々な珍しいものも混じっていて、神もまた、その例外ではなかった。

尚、白須賀の村社では神明社(伊邪那岐命を祀ったとされるが、明治41年に志氐神社へ合祀)の境内には、力石と呼ばれる三十貫とか四十貫とかの大きな石が幾つかあって、近郷の力自慢が集まり、これを持ち上げることを競ったという。それには、羽織を着て、前に結んだ紐が石に擦れて切れないように担ぎ上げることとされていたともいう。
これも、何らかの行事であったと思われるが、何時、如何なる折に行なわれたものか分からなくなってしまっている。