羽津の昔「年中行事」

 

9月

八朔

9月1日を月遅れで「八朔」と呼んでいた。また、この日を「馬の祭り」とも言い、その年に収穫した新豆を一升ずつ神主の所へ持って行った。神主は、その豆を蒸かして宮さんで飼っていた神馬に食べさせた。
村の若い衆は、カボチャや新豆を煮たものを宮さんに供え、そのあと、一同で酒を酌み交わし、盆踊りのやり直し(これを八朔踊りと言っていた)の日を決めたりした。

 

行者さんのまつり

昔、阿下(今の城山町)の四区のクラブの裏側に、行者さんの像を祀った小祠が建っており、これを祀る祭りが9月7日に行なわれ、「行者さんのまつり」といっていた。
この祭り、かっては「阿下の祭り」ともいわれ、この日、他所の親戚を呼び、ご馳走を振る舞ったものだという。しかし、その後、阿下に「しょうかんぼ」という流行病(熱病の一種)が広がり、それが行者さんの所為ではないかと流言され、祭りが行なわれなくなってしまった。そのため、昭和8年に、「丸万」の森はなさんを中心にした人たちの手で羽津山の正法寺へ像が移された。そして、それに伴い、祭りも羽津山で行なわれることになった。
これが、今も9月の第1日曜日に行なわれている羽津山町の「あんどん祭り」であり、当時より正法寺への参道には大きな行燈がいくつも飾られ、夜店も立ち並ぶといった華やかな祭りであった。

尚、この祭りが羽津山へ移ったあと、阿下では、しばらくの間、9月7日に村の人々が集まって、志氐神社へ参拝したあと、四区のクラブで直会をしていたようだが、後にこれも行なわれなくなってしまった。

 

月見

9月15日の夜、各家では「月見団子」を作り、塩味で茹でた里芋(トノイモという)と一緒に縁側へ供え、萩やすすきを立てた花瓶を傍に添えた。
この月見団子や芋を盗むのは天下御免と言われ、子供たちは、あちこちの家を駆けまわり、これを失敬して食べた。

 

旧跡まつり

現在の八田町第一で、毎年9月に行われている祭りである。
これは、旧八幡村の村社であったが明治41年に志氐神社へ合祀されて姿を消してしまった「伊勢国八幡神社」を偲ぶ祭りであり、従って合祀後に始められたものということができる。
かっては、この日、村中の者が集まり、村内の道路の草取りや清掃をしたあと、八幡神社の旧跡地の碑の前で、志氐神社神主のお祓いを受けてお祭りをしたあと、一同で直会の宴を行なったという。
しかし、現在では道路も舗装されて草取りなどの必要もなくなったので、年番だけが旧跡の附近を清掃したあと、神主のお祓いを受ける程度の祭りとなっている。
この祭りの日を、9月15日にしたのは、昔の八幡神社の祭日が陰暦の8月15日であったことに基づいている。
「羽津村誌」によれば、「八幡社 社格村社 社地東西十間南北五十五間 面積七百十三坪 村ノ西北方字八幡西ニアリ応神天皇ヲ祀ル 勧請年代由緒詳ナラズ 口碑ニ当社ハ一国一社ニシテ村名又ハ八幡ト云フ 古時皇国中六十六拝ノ一タリ 境内松樹ノ大木アリテ 自カラ上古ノ風致アリ 祭日八月十五日」と記されている。

 

「どうせん」さんのまつり

9月17日に行なわれた中北条の祭りであった。これは、「火焚かずの祭り」とも呼ばれ、この日は組頭の家へ一同が集まり黍(きび)で作った蒸し餅やうどんを一緒に食べたもので、個人の家では一切火を使わなかった。
中北条では、この祭りを舘道仙(導泉とも書く)に因んだ祭りであると言っていた。その後、この祭りも時代とともに忘れられ、現在は羽津町の服部ふとん店さんが個人的にお祭りをしている。
尚、羽津村誌によれば「厳島社 字里東にて民有地にあり市杵島姫をまつる」となっており、この厳島社が「どうせんさん」に当たっているようである。昔、字里東の民有地にはそれと思しき社が建っていたという。

舘道仙という人が、いつの時代の人で何をしたのか、はっきりしたことは分からない。が、伝承によれば、江戸時代に羽津の灌漑用水の事業に功績があったとも言われるし、また、それよりも遥かに時代を遡った赤堀氏の家老であり、羽津城を築いた祭の奉行を務めた人だという説もある。道仙の屋敷も、かっては会下にあったが、赤堀盛家の時代に、今のところへ下りてきたとも伝えられている。

「どうせんさん」は、この舘道仙の屋敷神だったのではないかとも言われている。
この厳島社も、明治40年に、志氐神社境内社へ合祀された。

 

秋の彼岸

春の彼岸と同じく、「彼岸の入り」と「彼岸の中日」そして「結願(けちがん)さん」に、「彼岸だんご」を作って仏前にお供えをした。
四日市の善光寺参りもあったと思うが、それは春にするものが多く、秋にはあまり行かなかったようである。
それよりも、毎年9月25、26、27日は四日市まつりの行なわれた日であり、ほぼ彼岸と時期が重なるので、専らそちらの方へ見物に出かけた。
昔の四日市まつりは、まことに盛大なもので、四日市の町毎に持っていた立派な山車が沢山繰り出され、羽津からも山車曳きに雇われていく者があった。

京都の祇園祭や飛騨の高山祭に比べても大して遜色のない壮観さであったが、戦時の空襲で殆どどの山車が焼失してしまい、以後、四日市まつりもすっかり淋しいものになった。

 

「シャクンド」さんのまつり

鵤町にあった社軍神社(字斑鳩に存在したが、明治40年12月3日に伊賀留我神社へ合祀)の祭りで、9月26日に行なわれ、「シャクンドさんのまつり」と呼んでいた。
これは、子供たちが中心になって行なった祭りで、夕方、神社の両脇に御神燈を掲げ、赤飯と御神酒を献げて参拝したあと、その赤飯を一人一人の掌に分けてもらって食べるのが楽しみであった。
また、神社の前では、高学年の子供が行司になった子供角力が行なわれ、御神酒を頂きながら大人たちがこれを見物したものであった。角力の賞品は、毎年、その年に嫁を迎えた家から「嫁藁(よめわら)」という祝儀(現金)をもらう習慣になっており、それによって賄われた。

合祀後は、伊賀留我神社の宮道の途中に、大きな2本の高張提燈(高さが5~6間もある大きなもので、子供たち15人ぐらいが掛かって、ようやく立てられるほどの大きさだった)を竹竿に取り付けて立てたというが、昭和10年頃に無くなってしまった。
この祭りは、今も続けられており、子供会による相撲大会も毎年行われている。

この社軍神社、羽津では「サンゴさん」ともいわれ、羽津村誌によれば鵤のほかにも字宿神(別名)の社宮神社(明治42年志氐神社に合祀)と字大宮西の邪軍神社(明治40年志氐神社境内社に合祀)とがあったが、祭神はいずれも不詳(字大宮西の邪軍神社のみ、あるいは、猿田彦命かと推している)であり、力の強い神さんであるとは言われているものの、それ以上の伝承は残されていない。
ただ、鵤の社軍神社の場合、伊賀留我神社の拝殿の額には、八衢比古命(やちまたひこのみこと)となっている。一説には八衢比売(やちまたひめ)命との双神とも言われる。

鵤の社軍神社は、現在の相松正章さん宅の西にある小高い三角状の畑に建てられてあった。本殿の屋根は檜皮葺で、小さな拝殿と思われる建物を伴っていたが、鳥居は無かった。その代わりに「エノミ」という小さな実をつけるイヌナシに似た落葉樹(リンゴの原種という言い伝えもある)の大木が境内の両側に2本立っていた。

社軍神社の本殿は、合祀後、伊賀留我神社の倉庫に保管されていたが、その後どうなったものか、今は存在しない。
拝殿と思しき建物の格子戸だけは、今も残っていて、現在の自警団のポンプ小屋に付けられている戸がそれである。