羽津の昔「年中行事」

 

10月

神無月

10月を神無月といい、村中の全ての神が出雲へ行って留守になるので、その間にクド(竈)を築きなおすと良いと言った。

普段の月だと、クドには荒神さんがおられるので、その罰があると言われ、手をつけることは恐れられていた。
壊した古いクドは、人に踏まれるといけないと言い、山の中へ捨てに行った。

 

 

大祭り

羽津の三大祭のひとつ。秋の収穫祭であるが、当地では単に「大祭り」と呼んでいた。
羽津では、10月16日から18日までの3日間にわたって行なわれ、16日を「しんがく」、17日を「本祭り」そして18日を「山おろし」と言った。
鵤においては、10月15日から17日までの同じく3日間に行なわれることになっている。

この祭りに当たって、志氐神社では一区から五区までの青年会が年番で宮守りをした。そして、16日の朝から、年番にあたった青年会が山砂を採ってきて、境内に祓所を作った。
これは、御鍬祭のところで記した鵤でのやり方と同じである。
この作業を終えた16日の夜、宮守りの青年たちは拝殿の中で、「日待ち」をした。拝殿の前では、夜通し篝火が焚かれた。
17日の「本祭り」における祭儀の順序は、ほぼ御鍬祭で既述した通りであり、午後からは直会が行なわれた。それには、一般の参拝者は拝殿の前の広場で、煮干を肴に御神酒をよばれる程度であった。
もちろん、村の各所には幟も立てられていた。

学校の児童らも、先生に引率されて神社に参拝し、16、17日の両日、学校は一時限のみで休みとなった。

この祭りには、獅子舞や太神楽も奉納された。16日の午前中は、獅子舞に従事している人たちの家を回り(これを、「かいなだし」と言った)、午後は、伊賀留我神社とその近辺の家々を回って舞った。17日は、日中に羽津の村々を回り、夜には志氐神社の境内で舞を奉納した。
そこでは、先ず獅子舞が奉納され、そのあとに太神楽が続いた。太神楽には、「しぐる舞」、「花の舞」、「剣の舞」、「天狗の舞」などがあり、その中には陽物のつくりものを持ち出し奇矯な仕草をする際どい舞いも含まれていた。
太神楽は北条・獅子は、中北条・中南条から出されたが、中北条の獅子が雌であるのに対し、中南条は雄だと言われる。実際、中南条の舞い方のほうが如何にも雄らしく荒々しかった。獅子舞に従事する人たちは、この日のために一ヶ月前から練習に励んでいた。

18日の「山おろし」に、獅子が舞うのは、東海道筋にある志氐神社の大鳥居の東の「槌屋」――当時の森伝六さんの家(羽津の大地主であった)だけと決まっていた。すなわち、「槌屋」で舞い収めをしたのである。
なお、この「槌屋」では、16、17、18の3日間とも舞われることになっていた。そして、舞の終わったあとの獅子頭は、この家で保管されることになっていたる。

 

小学校の運動会

10月18日の「山おろし」には、羽津小学校の運動会が開かれることに決まっていた。大正時代は、コの字型の配置であった校舎の間の運動場で、この運動会が繰り広げられ、村の大人たちが弁当持ちで挙って見物に行った。
昭和に入ってからは、北運動場が増設され、そこで運動会が行なわれるようになった。
尚、それより以前の小学校の運動会は、教育勅語の出されたのを記念して、10月30日に行なわれていたという。