羽津の昔「年中行事」

 

11月

七五三

昔は、七五三の祝いに類するような行事はなかった。
戦後、志氐神社に村田神主さんが来てから、11月15日の七五三が始められ、その年齢に該当する子供たちが親に伴われて参拝、お祓いを受けた後、千歳飴をもらって来るようになった。

 

 

亥の子

11月23日。この日は、羽津における三大祭の最後の祭りとしての「新嘗祭」が神社で行なわれた。だが、この祭りには神社の関係者が参列するだけで、一般のものには殆んど関係がなかった。従って、字毎の幟りなども立てることはなかった。そもそも、一般の百姓たちはこれを「新嘗祭」とはいわず、もっぱら「亥の子」と呼んでいた。
秋の収穫祭であり、神社ではその年に採れた稲の初穂を神に献げて、豊作を感謝する式が行なわれた。

各家では、仕事を休んで、ぼた餅を作り、あるいは塩飯を焚き、この日を祝ったのであり、学校も休みであった。そして、夕方、男の子たちが集まり、細縄でしばった藁束(これも「亥の子」といった)を手に手に持って、籾米を干した家々の「カド」の地面を叩いて回った。
その時に歌った歌は、「亥の子の晩に重箱ひろて、開けてみたらホカホカまんじゅう、にぎってみたら十兵衛さんの金玉」というものであった。
これを歌いながら、家々の地面を叩いて回り、別名は鵤へ、羽津は八幡のほうへ流れていき、お互いにぶつかったところで喧嘩をしあった。挙句には、富田の方へも行き、そこで茂福の子供たちと石の投げあいをしたりした。

「亥の子」は、全国各地に広く分布する刈り上げの行事であり、旧暦10月の亥の日に行なわれるのが通例で、地面を叩くのは、収穫の終った土地の神霊を鎮め祀る意であったと言われている。

尚、鵤での「亥の子」は、12月2日であり、伊賀留我神社の新嘗祭と一緒に行なわれた。収穫したばかりの初穂を、海の幸、山の幸とともに神前へ供え、他の大祭と同じように、幟屋形を立て、楽人たちの笙、ひちりき、横笛などによる奏楽も行なわれた。
夜には、「亥の子」を持った男の子たちが、西貝戸、中貝戸、東貝戸にそれぞれ10人位づつにわかれ各家の「カド」を叩いて回り、飴玉や一銭程度の祝儀をもらってきた。