羽津の昔「年中行事」
12月
山の神のまつり
12月8日、村の各所では山の神のまつりが主に子供たちの手によって行なわれた。
この日、別名では「子供講」にはいっている子供たちが中心になって、夕方から長谷神社の前の田圃で大火を焚いたという。昼間、子供たちが「山の神さん、藁おくれ」と言いながら、各戸を回って集めた藁を高く積みあげて燃やしたものであったらしい。
また、現在の城山町にある「どんど場」から少し西のところにも山の神が祀られていたが、その近辺の子供たちは、各戸へ米をもらいに歩き、決められた宿に集まって食事をし、また山の神へも参拝したという。
旧吉沢村では、「子供組」があったので、それに加入している子供たちが各戸を回って「ただ米」――うるち米を一升位ずつ集め、それを搗いて「しろこ餅」という御幣餅に似たものを作り、山の神へ供えるとともに子供たちで食べたという。それには、やはり決められた宿の家があって、そこで餅を搗き、さらには子供たち同士で、一睡もせずに夜あかしをしたという。
各家では、この祭りの頃、「ひばめし」を焚いて食べたともいわれる。「ひば」とは、沢庵を漬ける祭に上へかぶせた大根の乾燥葉のことであり、これを刻んで飯と混ぜ合わせたものを「ひめばし」と言っていたのである。
当地で、山の神まつりが行なわれていたことを記憶している人は極めて少なく、これが早い時期に消滅してしまったことが窺える。従って、山の神にまつわる伝承、たとえば、山の神が男神か女神か、他の地方で言われるオコゼとの関わり、あるいは山の神と田の神が春秋に交代するなどといった伝承も全く残存していない。
夜まわり
毎年、12月15日から1月15日までの1ヶ月間、村の者が2人ずつ当番制(番札がまわってきた)で夜まわりをした。それぞれが拍子木と太鼓を手に「火の用心」と一晩に3回、村内をふれて回ったのであり、その道順もきちんと決められていた。
かって、夜まわりは青年会がしていたのだが、青年会がやらなくなってから、組で行うようになったもので、昭和30年頃まで続けられていた。
冬至
冬至に、カボチャを食べると中気にならないと言われていたので、夏に獲れたカボチャを保存しておき、この日に煮て食べた。
また、体が温まり、風邪の予防にもなるといって、柚子の実の皮を浮べた「柚子湯」に入った。
大晦日
12月31日の大晦日を「大つもご」といった。「大つもご」の前日の30日、大抵の家では神仏に供えるための餅を搗き、「お鏡」や「おけそく」を作った。
「クモチは、せんもんや」といわれ、29日に餅を搗くことは忌まれた。が、それを「二九(ふく(福))餅」と解釈して敢えて搗く家もあった。
年の暮れに餅を搗かないことは、恥とされていた(従って、忌中の家でもこれを搗いた)ので、金がなくてどうしても搗けない家では、壁土をこねて土間にうちつけ餅搗きの音にごまかしたという落語に出てくるような話しも、実際にあったという。
家の中の「すすはらい(大掃除)」は、大晦日の前に済ませることが多かった。他所の土地では、この「すすはらい」に用いた笹や箒を特別に扱い、川へ流したり小正月のドンドで燃やしたりすることなどから考え、「すすはらい」は単なる大掃除ではなく新年を迎えるための聖なる行事であったと言われているが、当地においては、それを窺わせる伝承は無い。
鵤では、この日昼過ぎから、宮守青年団が出て、拝殿前で焚く大篝火の木を集めた。これには、村の山にある松の倒木や根を寄せ集めてきて、拝殿前へ高く積みあげた。そして、日が暮れた頃より、これに火を点けた。
大篝火は、志氐神社でも同じように焚かれた。
各家では、鏡餅を神棚や仏壇、そして井戸神、荒神さんなどに供え、鵤では、先祖の墓へも松、梅、水仙の花と一緒に鏡餅を供えに行った。
また、夕刻より、各家が一飾りずつの鏡餅を神社へ納めに行く。家によっては、御神酒も一緒に献げる。神社には宮守がいて、奉納台帳にそれらを記入するとともに、それぞれの鏡餅に奉納した人の名前を書いた短冊を付け、拝殿の神棚へ並べた。棚の中央には、村方の奉納した二升どりの大きな鏡餅が据えられていた。
このように神仏にお供えをし、また注連縄を飾り門松を立てるなど、正月の準備が整った夜、家で作った「大つもごそば」を食べ、みんなで夜明かしをしながら新しい年を迎え、そして各々の氏神さんへ年越しまいりに出かけた。
正月は、夜明かしをして迎えるものだと言われ、「大つもご」の夜は眠らないようにしたというから、これもかっては「日待ち」と同様に考えられていたものと推測される。