羽津用水


羽津用水とは

朝明川から取水し、大矢知地区を経由して羽津地内に至る農業用水路をいう。
昔、羽津地区は、7つの溜池によって灌漑用水をまかなっていたが、旱魃になると水不足が深刻であった。これを解消するため、元禄5年(1692年)頃に、既に大矢知村まで来ていた朝明川大矢知水路を延長して、三石塚(県道9号が北勢バイパスと交差する辺り)から久留倍、矢内谷、山畑を掘削、十四川の下を潜って羽津村地内まで用水路を開削し、宝永3年(1706年)に完成した。
用水の完成後、7つの溜池は埋め立てて、新田として大矢知村に返したといわれている。この新田に「十兵衛起し」という名が残っている。

 

羽津用水を作ったのは誰か

1.荒木十兵衛説

「十兵衛起し」の十兵衛というのは、17世紀後半に実在した北鵤村の荒木十兵衛という人物のことである。
大矢知町照恩寺の住職であった佐久間義圓(ペンネーム青木谷彦)氏が、この「十兵衛起し」にヒントを得て、昭和10年代に当時四日市で発行されていた勢州毎日新聞に「羽津用水」という小説を連載した。この作品は荒木十兵衛を主人公としたフィクションだったが、新聞社が勝手に実録としたので大きな反響があり、顕彰碑を建てようという機運が起こり、昭和28年(1953年)になって「荒木十兵衛頌徳碑」が建てられた。碑には次のように刻まれている。

元来、羽津の地は西に丘陵を控え、東は一望の田園が開けているが、わずかに七つの溜池によって灌漑の用を達していた。したがって、一度旱魃になると作物は枯死し、一ヶ年の労作も水泡に帰すことが度々であった。
ところが、今から二百六十年程前、北鵤の荒木十兵衛が朝明川大矢知水路を延長して羽津地区にも及ぼし旱害から救おうと考えた。
当時は土木技術も幼稚であり、水路も延々六キロに及ぶので実行に移すには容易なことではなかった。十兵衛は自ら人夫を督励し、血と汗の努力を重ね、数年後遂に素志を貫徹させた。これによって羽津は勿論、北鵤・茂福地内までもその恩恵を受けるようになり、数百町歩の田園に生気が溢れ、作物も豊かに稔り、農民も生業を楽しむことができた。
十兵衛起の字名は、この偉業を永久に記念しようとする当時の人々の感謝のあらわれである。
昭和二十四年一月、近代農法に適するよう、耕地区画の整理をし、これと並行して一千七百余万円の巨費をもって羽津用水路を大改修するに当たって、先人の労苦の跡をそのままに櫛風沐雨二年半、同二十七年五月、予定通りの竣工をみた。
ここに往時を偲び、今に培う羽津地区農家一同、先覚者の義挙に対し、敬意と感謝を捧げ、その功績を後世に伝えるためこの碑を建てたものである。
                                                  四日市市長  吉田千九郎

佐久間氏の小説は全くのフィクションという訳ではなく、氏が土地の古老から聞きとった言い伝えを参考にしたようである。佐久間氏は、昭和10年代に幕末から明治にかけての大矢知の様子を聞き取り、それをまとめたものを『陣屋町大矢知かいわい』として昭和60年(1985年)に出版している。その中から羽津用水に関する話をまとめると、

北鵤及び羽津、南鵤、別名、吉沢、白須賀、田市場などの村々の水利は乏しく、大矢知地内大沢の羽津広に溜池や沼が7つあって、そこから引いたのと、海蔵川から引いて下流を僅かに灌漑したものがあったが、水が乏しく度々苦しんでいた。荒木十兵衛は、大矢知まで来ている朝明川の水を矢内谷を切り割って引けば通せると考え、殿様に申し出たところ、「出来なかったらどうする」と問われ、「出来なかったら、打ち首にして団子の宮(広永町にある穂積神社のこと)にさらして下され」と答え許可を得た。
十兵衛は、諸村と協力して深い川を掘り、自分たちの村に給水することに成功した。水は大矢知の捨て水で良いこと、従来は大矢知で負担していた水源地から大矢知までの水路の修理は、一切、羽津の村々で負担することが条件であった。
用水の完成後、羽津広の溜池を埋めて、その跡地を大矢知に戻した。
用水の工事は、台地を切り開き、途中2カ所で川の下を潜るなど難しい工事で、十兵衛の苦心の跡がうかがえるが、桑名藩はその才を恐れて十兵衛を暗殺した。土地の俗謡に「イノコの晩に重箱ひろて、あけてみればホカホカまんじゅう、握ってみれば十兵衛さんのきんたま」というのがある。このきんたまは肝っ玉のことで、十兵衛が処刑されたために、このような表現をして為政者の目を反らせたものだろう。
ということである。

十兵衛が殺されたのは、宝永3年(1706年)のことで、褒賞を与えると見せかけて城に招かれ毒殺されたという。十兵衛の位牌は北鵤説教所に安置されている。

北鵤村は、朝明川の氾濫によって田んぼが埋まってしまった今村(現在の朝日町柿の東にあった)の住民が集団移住してできた村で、丘陵の端に位置するため、洪水の心配はなくなったものの、一転して水の確保に悩まされるようになった。近くには十四川が流れているが米洗川よりも小さく、水量には限りがあった。そのために用水が必要だったとしても、北鵤村だけの為に引くのならもっと容易な方法があったように思われる。

庄屋でも名主でもなかった荒木十兵衛が、何故、他所の村の為に私財をつぎ込み命をかけてまで用水を通そうとしたのか腑に落ちない。義人の義人たる所以かもしれないが、俄かには信じがたい。とは言え、上記のような言い伝えがあるからには、何らかの形でかかわっていたのであろう。

 

2.野村増右衛門説

野村増右衛門は、幼名を兵助、元服して仁右衛門と称し、後に増右衛門と改称した。才幹衆に秀で、政治、経済の術に長じ、文武両道に明通していた。桑名藩第5代藩主松平定重のときに、郡代として手伝普請、新田開発、河川工事、神社仏閣造営修理、道路橋染修復、山林造成、溜池造築など多岐にわたり活躍し、藩政の再建に多大な貢献をしたという。
松平定重の時代には天災が相次ぎ、特に元和元年(1681年)の洪水による被害は激しく、定重は家臣の減給、176人の家臣のリストラを断行した。元禄14年(1701年)にも城下で大火災が起こり、城郭をはじめ多くの侍屋敷・寺社・町家など1500軒が焼失した。このため、藩の財政は極度に悪化し、定重はこの苦境を打開するために藩政改革に取り組むことを決断した。その中で、野村増右衛門は倹約などの諸施策を成功させて次第に頭角を現し、貞享2年(1685年)には郡代毛利半左衛門の郷手代で8石2人扶持であったのが、宝永2年(1705年)には750石の郡代になり、その勢いは譜代家老を凌ぐまでに至るという異例の昇進を遂げた。そのため、譜代の無能な家臣団の嫉視を買い、宝永7年(1710年)3月、藩金2万両調達のため上京中に、公金の盗用、窮民の搾取、豪富な私生活、公私の奸謀、れい閉その他種々の嫌疑に依り逮捕された。
この事件に関する藩の記録は後世にことごとく焼却・湮滅されたため、詳細は不明であるが、その罪名の殆どが冤罪だと言われている。そして、わずかに会計に関する些細な罪のみで、一族44人をはじめ、関係する藩士凡て370人(一説に570人)が死刑あるいは追放、罷免に処せられた。
この公平性を欠いた厳しい処分が幕府にも知られるところとなり、閏8月15日に定重は越後高田藩に懲罰的な移封を命じられた。
事件の110年後の文政6年(1823年)に、元の桑名松平家が桑名に復封し、関係者の赦免・復権が行われた。桑名東方大正寺にある刑死者の供養塔も、復権後の文政10年(1827年)になって漸く建てられた。

前述のごとく、関係資料がことごとく消滅してしまっているため、野村増右衛門が羽津用水の開鑿に直接関与したという記録は確認されていない。羽津の近くでは垂坂観音寺の再建を増右衛門が主導したことが知られている。また、志氐神社に残っている宝永3年(1707年)の修理の時の棟札に増右衛門の弟である代官野村仁右衛門の名があることから、増右衛門も羽津界隈の工事に関係していたのではないかととの推測の余地もある。

野村増右衛門説を唱えたのは、羽津の郷土史家であったM氏(故人)であるが、その根拠は、佐久間氏から連載小説「羽津用水」がフィクションであったと聞いたことと、増右衛門の活躍時期と活動業績からみて関与した筈ということで確たる根拠に欠ける。

 

羽津用水の維持管理

羽津用水の維持管理は、現在でも羽津村が行っている。また、かっては羽津から上流の村に用水費を払っていた。昭和14年頃で1,000円くらいだったという。その後、金銭から酒に代わり、羽津から酒一斗を大矢知に贈り、大矢知はその中から更に上流の平津と中村に三升ずつ納めたという。この他、大雨の時に雨水を逃がす堰樋の管理をする人にも樋抜き料として酒ニ斗を納めていたという。
川の下を潜る暗渠は樋(どお)又は洞樋(どとお)と呼ばれ、長さ1間(7尺くらいともいう)、径4尺の木造の風呂桶形の樋胴(どおかわ)を1尺ずつ入れ込んで組み上げた。21年目ごとに羽津や北鵤の村々が総出で取換えたという。

 

現在の羽津用水の姿

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