歴史


縄文時代以前

石器時代及び縄文時代の遺跡は、羽津地区内からは見つかっていない。
そもそも、この時代は人口が少なく、縄文時代早期には、近江、伊賀、伊勢、志摩、紀伊、淡路、播磨を合わせても、1千人に満たなかったし、縄文時代後期でも3千人程度であったというから、三重県全域で見ても多くても数百人くらいの規模だったと思われる。
そう考えると、遺跡自体の絶対数が極めて少なく、存在しなくても不思議はない。寧ろ、存在する方が稀有なのである。

縄文時代の遺跡は東日本に偏って存在している。今から約一万年前は現在より気温が低かったとされているが、縄文時代になると徐々に温暖化し、縄文時代中期には現在より3℃程度高かったといわれている。そのため、日本列島の植生分布が変わり、東日本はブナなどの冷温帯落葉樹林からコナラ、クリなどの暖温帯落葉樹林に、西日本は暖温帯落葉樹林からカシ、シイなどの常緑照葉樹林に変わった。そのため、ドングリを主食にしていた縄文人は食料の豊富な東日本に移住したと考えられている。

三重県内の縄文遺跡は、縄文前期や中期のものに比べて後期以降は数が激減しているが、その理由として、こうした植生の変化が関係していると考えられている。

また、温暖化したことで、海水面が上昇し、関東平野では今より5メートル程度は高かったといわれる。伊勢湾沿岸ではどの程度高かったのかは明らかになっていないが、同程度の上昇はあったのであろう。これを「縄文海進」と呼んでいる。現在の地形にあてはめてみると、県道9号(大矢知街道)から東側は海だったということになる。
四日市市内の縄文遺跡が比較的山側に偏って存在することから考えると、もっと海が入り込んでいたことも考えられる。

この時代における日本列島の温暖化と海面上昇は直接は関係ないそうである。温暖化は黒潮の流れが変わり日本海にまで入り込んでいたことが原因であったという。海面上昇の方は、北アメリカやヨーロッパの大陸氷床が融けたことによるとされ、所によっては100メートルもの海面上昇があったといわれる。その後、日本でも5メートル程度上昇した海面が現在のように下がったのは、どこかで再び氷ができたのではなく、海面上昇によって海底にかかる重力が増え海底が沈んだからだとされている。(沈んだ分は、氷床の重しが取れたところを押し上げた。)

縄文時代晩期になると再び気温が下がり、東日本の縄文文化圏は衰退していく。

 

弥生時代

弥生時代になると、稲作農耕が伝わった。かっては稲作文化を携えた大陸から渡来人が縄文人を駆逐したと考えられていて、稲作の始まりを弥生時代の始まりとしていた。しかし、縄文遺跡から稲作の跡が見つかったことから、現在ではこの説は否定されている。稲作文化をもった人々が渡来したことは間違いないが、古来の縄文人がそれを真似して稲作をするようになったというのが最近の通説である。

稲作が普及すると、食料の安定的な確保と増産が可能となって、急激に人口が増える。最初は直播きだった稲作も、灌漑を取り入れ大規模化、技術化することになってくると、必然的に労働力の集約化及び階級化が進むことになった。このことが逆に人口増を要求したとも考えられる。人口が増えると部族が形成されるようになり、部族内での階級化が進み、力をもった支配者が出現するようになる。

この時代になると遺跡も多く発見されるようになり、羽津地区内でも山奥遺跡、羽津広遺跡、中尾遺跡、井詰遺跡、垂坂遺跡が見つかっている。いずれも丘陵部にある住居跡であり、耕地がどこにあったのかは定かではないが、平野部はまだ海だったものと思われる。

 

古墳時代

古墳時代になると更に人口も増えて、部族を束ねる豪族が出現し国が形成されるようになる。国同士間の覇権争いの結果、統一国家が形成されるに至る。神武天皇から今上(平成)天皇に至る125代の天皇で実在が確かであるといわれているのは第10代の崇神天皇が最初でその別名を「御肇国天王(はつくにしらすすめのみこと)とも呼ばれている。この崇神天皇の在位時期は、この古墳時代である3世紀後半から4世紀初めとされている。

羽津地区でも志氐神社古墳が築かれたのがこのころとされており、この地方にも豪族がいたことが明らかである。志氐神社古墳の被葬者は『伊勢名勝志』(明治22年刊)に、「里人の伝承によると額田部氏の始祖である“天津彦根命意富伊我都命(おういがつのみこと)”の陵墓である」と記されているが、他にそれを証明する資料は見つかっていない。

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