石碑・道標等
名称 | 霞ヶ浦緑地由来碑 | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 | ||
沿革等 | この碑は、昭和46年(1971年)に霞ヶ浦緑地の建設に着手するにあたり、当時の四日市市長 九鬼喜久男氏により建立されたものである。
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名称 | 平田佐矩氏像 | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 |
沿革等 | 平田佐矩は、明治29年(1896年)9月25日三重郡富洲原町に生まれ、平田紡績株式会社社長を務め、三重織布会社や桑野電機会社などの取締役を兼務していたが、昭和34年(1959年)第11代四日市市長に就任し、昭和40年(1965年)まで市長を務めた。 氏は実業界における豊かな経験に基づき大四日市建設への大きな抱負を持って市長に就任し、丁度、高度成長期に当たるその就任期間に四日市の工業発展に尽力した。特に力を入れたのが霞ヶ浦の開発で、近畿日本鉄道株式会社の協力と八幡製鉄株式会社の援助を得て、昭和38年(1963年)に霞ヶ浦土地株式会社所有の霞ヶ浦の土地を市の所有地とした。 この銅像は市制70周年記念で建立されたものである。 |
名称 | 平田佐次郎紀功碑 | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 |
沿革等 | 平田佐次郎は、天保13年(1842年)旧朝明郡南福崎村(現在の三重郡川越町)の農家水越佐七の五男として生まれ、13歳の時に平田家へ奉公に出て、船の船員・ボーイとなり、18歳で支配人となった。23歳で500石の伊宝丸を買収して船主となり、江戸四日市間の貨物運搬に従事した。主人の家・平田家の養子になって、平田佐次郎と改名して、兄佐平に伊宝丸を譲り、新たに1400石の福吉丸を購入して、廻漕業に従事する。海運業から製網業が有利と知り、慶応4年(1868年)漁網の製造販売を目的に麻屋平田漁網商店、その後、製網から綿紡績の平田紡績を創設し、財を成した。 明治27年(1894年)関西鉄道が開通して富田駅が設置された。当時富田駅から富田一色に至る道路は車馬の通行さえ困難な荒れた道で、これを憂いた平田佐次郎が富田一色の村発展のため補修を行い、併せて新道も新設した。これによって周辺村民の利便性が上がったので、明治31年(1898年)2月、佐次郎の功績を称える碑が周辺村民により建てられた。碑文は旭川学人大賀賢励撰文によるもの。 以前は富田一色海運橋付近本町にあったが、海運橋周辺の整備事業の際に平田佐矩氏像の横に移設されたものらしい。 |
名称 | ロングビーチ市との姉妹都市提携記念碑 | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 |
沿革等 | 姉妹都市提携5周年記念のプレートは元々、油井ポンプとセットになっていたもので、両側に都市提携40年のあゆみが記されたプレートと組み合わされたのは、40周年記念に整備されたものとみられる。 ロングビーチ市は、アメリカ合衆国の西海岸、ロサンゼルス市の南に位置し、太平洋に面して9kmに及ぶ長い砂浜を有する、カリフォルニア州第5の都市である。ウオーターフロント立地を生かした美しい街並みを持つ観光都市であり、クイーンメリー号やロングビーチ水族館、ロングビーチグランプリなどの豊かな観光資源と温暖な気候に恵まれていることから、毎年多くの観光客が訪れる。また、過去に油田が発見され、石油精製などの工業都市としても発展し、その後、航空機製造などをはじめとする重工業産業が市の代表的な産業となり、今日では、全米第2のコンテナ取扱量を誇る港を有する港湾都市でもある。 姉妹都市提携のきっかけは、昭和32年(1957年)頃から市民の間で国際化に向けた機運が高まり、当時の吉田勝太郎市長がアメリカ文化センターと連絡を取り合ったことにあった。 ①人口30~40万の都市、②港中心の工業都市、③太平洋岸の都市 の3点に重点を置き、提携に関する調査研究を進めた結果、両市が互いに太平洋を挟んで港を有し外航船により結ばれていること、石油化学中心の工業都市であること、既に提携している名古屋市とロサンゼルス市に対する位置関係が酷似していること、ロングビーチ市の周辺に北勢地域出身者が多く移住していることなどの点で親しみが持てる等の理由により、ロングビーチ市との提携に至った。 両市の間では、交換学生、大学交流、教師相互派遣、英語指導員招請、医療交流、学生環境サミットなどの交流事業が行われた。 |
名称 | 油井ポンプ | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 |
沿革等 | 姉妹都市提携5周年記念にロングビーチ市から贈られたものである。 |
名称 | エドウィン・ウエード氏顕彰碑 | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 |
沿革等 | エドウィン・ウエード氏は、姉妹都市提携時のロングビーチ市長で、氏の退任にあたり、その功績を称えて昭和50年(1975年)に建てられたものである。 |
名称 | ロングビーチ公園命名碑 | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 |
沿革等 | 昭和58年(1983年)に、四日市市とロングビーチ市の姉妹都市提携20周年を記念して、霞ヶ浦緑地北公園をロングビーチ公園と命名したことの証に建てられたものである。 |
名称 | 姉妹都市提携26周年記念プレート | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内 |
沿革等 | 姉妹都市提携25周年を記念してロングビーチ市から贈られたものである。 |
名称 | 馬頭観音碑 | 所在地 | 大字羽津甲 霞ヶ浦緑地内(競輪場北) |
沿革等 | 昭和4年(1929年)、霞ヶ浦土地株式会社により霞ヶ浦競馬場が建設された。霞ヶ浦競馬場は、三重県畜産組合に貸与され、軍馬養成の目的で毎月(春秋2回?)県営競馬が開催され、夏の海水浴とともに賑わった。昭和12年(1937年)以降、日中戦争が激化すると軍馬として盛んに馬が徴用され、その訓練の為に引き馬競争などが行われた。戦局の悪化により、昭和19年(1944年)になると競馬は中止された。戦後になり、一旦は復活したものの、昭和25年(1950年)を最後に競馬は行われなくなり、昭和27年(1952年)に競輪場に改装された。 馬頭観音は、江戸時代から馬の供養のために信仰されてきた観音で、この碑は昭和5年(1930年)9月5日に建立され、霞ヶ浦競馬場関係者により供養が行われていたもので、競馬場を偲ばせる唯一の遺物である。 |
名称 | 神明社跡碑 | 所在地 | 白須賀一丁目5-1 |
沿革等 | かって白須賀の村社であった神明社の跡を示している。 神明社は、明治41年(1908年)2月15日に志氐神社に合祀された。 ⇒「神社・寺院」を参照。 |
名称 | 道標 | 所在地 | 白須賀一丁目6-12 |
沿革等 | 前面に「左 四日市」と刻まれている。 大きさは、高さ39.5cm、幅15.0cm、奥行14.0cm。 |
名称 | 道標(羽津四區除雪記念) | 所在地 | 城山町1-38 |
沿革等 | 東海道と新濃州道(員弁街道)の起点の三叉路に建っており、正面(東)に「右 桑名/左 四日市道」、左面に「右 四日市/左 大矢知道」、裏面に「羽津四區除雪記念」、右面に「大正12年1月3日」と刻まれている。 大きさは、高さ81.5cm、幅23.5cm、奥行24.0cm。 「羽津四區除雪記念」というのは、大正12年(1923年)1月の大雪で運行できなくなった関西線の除雪作業を行った金場、南条、城山、阿下、会下の羽津四区の人達に支給された作業代金で建てたことを示している。 |
名称 | 羽津城跡碑 | 所在地 | 羽津山町22-19 |
沿革等 | 羽津氏6代約170年にわたり居城した羽津城の遺構跡を示している。 ⇒「史跡・旧跡」を参照。 |
名称 | 忠魂碑 | 所在地 | 羽津山町22-23 |
沿革等 | 4基の忠魂碑が並んで建てられており、左から西南の役、日露戦争、太平洋戦争、日清戦争の順に並んでいる。 西南の役の碑は「西南役戦死者藤井伊之助君碑」と刻まれており、明治29年(1896年)11月の建立。 日露戦争の碑は「征露忠死碑」と刻まれており、明治39年(1906年)4月の建立。題字は元帥陸軍大将大山巌によるもの。 「征露」の2文字は埋められている。これは、社会主義者等の所謂左翼が幅を利かせていた時代に、旧ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)を敵視するような言葉が問題視されたために埋めたものであろう。整腸薬の「正露丸」もかっては「征露丸」と表記されていた。 太平洋戦争の碑は「護国英霊碑」で、青木三重県知事の名前が表面に刻まれており、裏面には光明寺住職常盤井賢十氏の筆によって当地の戦没者200名の名が刻まれている。昭和29年(1954年)3月建立。 日清戦争の碑は「忠死者之碑」と刻まれており、明治34年(1901年)の建立。題字は陸軍少将正五位勲二等功三級男爵大迫尚敏によるもの。 太平洋戦争の碑以外の3基は、以前は岡山(通称、垂坂山)の山頂にあったが、昭和3年(1928年)に現在地に移設された。 |
名称 | 森多三郎記念碑 | 所在地 | 羽津町7-5 | ||
沿革等 | 文久元年(1861年)、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し、これを阻止しようと、羽津村組頭であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗した。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになった。 その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられる。 この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたものであり、記念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられている。 碑 念 紀
年 酉 元 久 文
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名称 | 八十宮御遺蹟碑 | 所在地 | 羽津町7-23 |
沿革等 | 八十宮(やそのみや)というのは、霊元上皇の第14皇女八十宮吉子内親王のことである。正徳5年(1715年)9月、宮2歳のときに、徳川7代将軍家継(当時7歳)と婚約したが、翌年4月に家継が薨去したため、宮は仏門に入られて家継の菩提を弔った。宮は青蓮院所属の別殿に住まわれたが、光明寺第5世俊応の妹つね(宮名:岡田)が宮付きの青蓮院御曹司として召された。 宮は宝暦8年(1758年)8月に薨去され、その際に、位牌と遺物3品がつね女に下賜された。これらの品々は光明寺に奉安されていたが、昭和20年(1945年)の四日市空襲の際に収蔵庫が罹災し焼失してしまった。 |
名称 | 八幡神社社名碑 | 所在地 | 八田二丁目2-32 |
沿革等 | かって、この地にあった八幡神社のもので、明治41年(1908年)2月15日に志氐神社に合祀された後も、残されている。 この他、八幡神社の遺物としては、石灯篭が旧東海道沿いの志氐神社一の鳥居脇に移設されて残っている。 この碑の北にある服部牛乳販売店の庭に八幡神社遥拝所が設けられている。この遥拝所は合祀先の志氐神社の方角を望むようになっているが、設置された経緯は不明である。 ⇒「神社・寺院」を参照。 |
名称 | 加藤茂雄君顕彰之碑 | 所在地 | 八田三丁目1-19 |
沿革等 | 北勢地区車検場を設立(昭和32年)し、北勢自動車協会を発足させた加藤氏の功を記念して昭和45年に北勢自動車協会が設立したもの。 |
名称 | 万葉旧跡四泥能埼碑 | 所在地 | 大宮町14-6 |
沿革等 | 下の万葉歌碑の丹比屋主真人の歌の他、名寄せにも知家が四泥の埼を詠んだ歌が収められており、四泥の埼は歌枕になっていたようである。その四泥の埼の場所は、志氐神社のある台地の突端であろうと考えられている。 『勢陽五鈴遺響』では、四泥崎は羽津から富田浦に至る海岸の総名とされている。 名寄せの知家の歌 けふは誰か御祓をしての崎ゆふとりしてゝ浪もこすらん |
名称 | 万葉歌碑(丹比屋主真人) | 所在地 | 大宮町14-6 |
沿革等 | 天平12年(740年)の聖武天皇の御幸の際に、御供の丹比屋主真人〔たじひのやぬしのまひと〕が当地で、妻を思い無事を祈って詠んだとされる歌が万葉集(第6巻1031番)にある。 後れにし 人を偲〔しの〕はく 四泥の埼 木綿〔ゆう〕取り垂〔し〕でて さきくとぞ念〔おも〕ふ ※この碑文中の天武天皇行幸年が「天平12年」と 記すべきところを間違って「天平10年」と記さ れてため、碑にひび割れが入ったのを機に新し い歌碑が追設された。 【注】屋主は途中で帰京して四泥の埼には来ていないため、この歌を詠んだのは、やはり天皇に随行していた屋主の兄の家主〔やかぬし〕だろうと言われている。 |
名称 | 傍示碑「従是北桑名領」 | 所在地 | 大宮町14-6 |
沿革等 | 羽津地区は幕末の一時期を除き、江戸時代を通して桑名藩領であった。この碑は文政年間に東海道筋の金場の藩領境界に南面して建てられたものである。東海道分間延絵図(文化3年)にも「傍示石」として記載されている。 明治9年の伊勢暴動の際に混乱に紛れて行方不明となったが、大正9年頃、羽津村庄屋伊藤伝十郎宅の庭の敷石になっているのが発見され、羽津村役場入口に移設された。昭和16年(1941年)羽津村の四日市市への合併の際に敷地の関係で別の場所に移され、戦後になって現在の場所に移された。 文字の筆者は松平定信側近の小林穆斉。 大きさ:高さ189.0cm、幅32.0cm、奥行31.0cm。 |
名称 | 第1回国勢調査記念碑 | 所在地 | 大宮町14-6 |
沿革等 | 大正9年(1920年)に、初めて行われた国勢調査を記念して建てられたものである。 国勢調査を実施するための法律は明治35年(1902年)に成立しており、当初の予定ではその3年後に調査を実施することになっていた。ところが、日露戦争が勃発し、更には第一次世界大戦もあって、延期に延期を重ね15年遅れでようやく実施された。 |
名称 | 角觝碑 | 所在地 | 大宮町14-9 |
沿革等 | 明治の初期に角力の強い人たちが集まって「羽津角力会」を結成し、毎年神社で花角力大会が開催されたという。その後、満州事変が起こり戦火の拡大に伴い、大会は廃止となり、記念にこの碑を建てたといわれているが、銘板が紛失し詳細は不明。 |
名称 | 戦艦陸奥砲塔破片 | 所在地 | 大宮町14-6 |
沿革等 | 戦艦陸奥は昭和18年(1943年)6月8日に山口県柱島の泊地で謎の爆発事故により沈没した。戦後になって、遺骨の回収を兼ねて船体の一部が引き上げられた。この破片は森金属工業に持ち込まれたスクラップに混じっていたのが発見され、調査の結果、陸奥の砲塔の破片と判明したもので、森氏から神社に献納された。 |
名称 | 除雪記念碑 | 所在地 | 大宮町14-6 |
沿革等 | 大正12年(1923年)1月、北陸地方に大雪が降り、当時の羽津村からも多くの人達が救援活動に参加。その記念に建てられたもので、羽津村在郷軍人会、羽津村消防団、羽津村青年団、鵤保安会の銘が刻まれている。 |
名称 | 長谷神社社名碑 | 所在地 | 大宮町14-9 |
沿革等 | 元は別名村字宿神にあった長谷神社に立っていたもので、明治42年(1909年)9月22日に志氐神社に合祀された後も拝殿も残っていて、森家4代に亘り守られてきたが、平成13年に老朽化により拝殿が取り壊されたのに伴い、碑も志氐神社境内に移設された。 ⇒「神社・寺院」を参照。 |
名称 | 志氐神社境内古墳碑 | 所在地 | 大宮町14-6 |
沿革等 | 志氐神社の境内にある前方後円墳。 ⇒「史跡・旧跡」を参照。 |
名称 | 志氐神社古墳培塚 | 所在地 | 羽津中一丁目2-9 |
沿革等 | 志氐神社境内古墳には、かって7つの培塚があったといわれるが、大正年代には既に一つしか残っていなかったという。 最後の一つは田んぼの中にあり、昭和40年代には未だ墳丘が姿をとどめていたが、田んぼが埋め立てられ宅地化した際に墳丘も壊された。 |
名称 | 二宮金次郎像 | 所在地 | 大宮町16-35 |
沿革等 | 梅本金一、服部清太郎両氏によって、昭和11年(1936年)に銅像が建てられたが、戦時中に銅像は供出させられた。現在の像は、戦後に陶器で再建されたものである。 |
名称 | 100周年記念碑 | 所在地 | 大宮町16-35 |
沿革等 | 昭和13年(1938年)に日支事変で戦死した杉山末吉氏の遺族である堀木三郎、杉山賢二両氏の寄付により楠公銅像が建立されたが、銅像は戦時中に供出させられ台座だけ残っていた。 羽津小学校創立100周年記念事業として再び両氏の協力により、記念碑が台座の上に建てられた。 |
名称 | 駒木根先生謝恩記念碑 | 所在地 | 大宮町15-2 |
沿革等 | 大正7年に羽津小学校に赴任し、小学校内に新たに設置された裁縫学校の指導者として、羽津村の女子教育に尽力した駒木根治江先生の業績をたたえて大正15年(1925年)8月15日に建立された。 元は学校の西北部にあったが、校舎の拡張に伴い現在地に移設された。題字は三重郡長の加藤新太郎の書によるもの。 |
名称 | 森泰友氏の墓 | 所在地 | 大宮町21-24 |
沿革等 | 森泰友は文政11年(1828年)8月10日に代々神職を務める森家に生まれ、幼少のころから国学を学び、16歳にして神職の相続を許された。 天保14年(1843年)、村民の教育のために私塾を開き、読書と習字の2科目を教えた。生徒は常に70~80人を下らず、明治5年に羽津学校の開校によって閉塾するまでの間、延べ300余人を教えたという。 この間、明治6年(1873年)には、伊賀留我神社、八幡神社、、神明社、長谷神社、天王社(茂福)、立坂神社(垂坂)、若宮八幡社(北村)、伊賀留我神社(北鵤)、長倉神社(大矢知)、耳常神社(宮村)の祠掌を、明治8年(1875年)には志氐神社祠官を務めたが明治11年に退いた。その後、明治35年(1902年)に諏訪神社の社掌に任じられたが在任中に病に倒れ没した。 この墓標は、氏の徳を称えて門人有志により建立された。 |
名称 | 森哲也先生之碑 | 所在地 | 羽津山町17-14 |
沿革等 | 森哲也は、大正時代に羽津小学校の教壇に立った先生で、教育に熱心なあまり体を壊して中途で退職したという。この碑は、羽津村謝恩会の人達が氏の遺徳を偲んで大正11年(1921年)に建立したものである。 |
名称 | 森正道翁顕彰碑 | 所在地 | 羽津山町10-4 |
沿革等 | 元亀年間に森与エ門盛景が医を業として中興して以来、森家は代々名漢医として知られていた。森正道は、明治20年に森玄佺景丸の長女と結婚し、森家の養子として迎えられた。森正道は、明治30年に羽津病院を設立した。氏は内科及び外科医学を研究するため2回ドイツに留学した。ドイツから帰国後、夜盲症や脚気が栄養不良に起因することに気づいてビタミンの研究を進め、これらの治療に肝油とビタミン剤が効くという論文を発表して、明治42年三重県で最初に医学博士の学位を授けられた。論文は、当初、肉食中心のアメリカでは認められなかったが、第一次世界大戦中にドイツ軍の兵士の多くが夜盲症に罹った時、肝油・ビタミン剤の投与によって治癒し、世界の医学界で森の説が認められた。また俗称小町病(膣欠損症)のため森式造膣術を創始するなど、内科、外科、産婦人科と多領域に亘って患者の治療に画期的な業績を上げた。 戦前には顕彰碑の台石の上に森正道翁の銅像が建っていたが、銅像は戦時中に供出してしまったそうである。 |
名称 | 道標 | 所在地 | 羽津山町4-6 |
沿革等 | 表面に「右 羽津 服部泰次郎」、右側に「左 垂坂」と刻まれている。 大きさは高さ57.5cm、幅15.5cm、奥行17.5cm。 服部泰次郎は、安改元年(1854年)に小杉村で生まれ、10代半ばから小間物や雑貨を天秤棒で担いで行商に歩いた。29歳の頃には米穀商を手掛け、近郊で買い集めた米を四日市港から横浜に船で送り伊勢米の販路を拡大した。日清・日露戦争の際には軍用米の取扱業者となり、その後アメリカへの米の輸出を行うなど事業を拡大し、県下屈指の米穀商となった。大正8年3月、行商をしていた頃に道がわからなくて苦労した経験から、予ねて念願の道標建立を三重郡役所に申し出で、当時の千種村助役であった金津一の筆による文字を千種村の石工たちが朝明石に刻んだ。 |
名称 | 道標 | 所在地 | 別名一丁目15-17 |
沿革等 | 前面に「右 小杉 服部泰次郎」、右側に「左 阿倉川」と刻まれている。 大きさは、高さ57.0cm、幅17.0cm、奥行17.0cm。 |
名称 | 道標 | 所在地 | 別名一丁目16-23 |
沿革等 | 前面に「右 西阿倉川」、右側に「左 東阿倉川 服部泰次郎」と刻まれている。 大きさは、高さ66.0cm、幅16.0cm、奥行17.0cm。 |
名称 | 荒神社〔こうじんしゃ〕跡碑 | 所在地 | 別名四丁目14-22 |
沿革等 | かって別名村にあった荒神社の跡を示している。 荒神社は明治40年3月9日に志氐神社に合祀された。この碑は私有地内(服部家の裏庭)にある。 ⇒「神社・寺院」を参照。 |
名称 | 大膳寺跡碑 | 所在地 | 南いかるが町18-4 |
沿革等 | 10世紀に建てられたと伝えられる大膳寺の跡を示している。 ⇒「史跡・旧跡」を参照。 |
名称 | 道標(国宝元三大師) | 所在地 | 大字羽津3511 |
沿革等 | 正面に「国宝元三大師」、左面に「左 西阿倉川道」、右面に「右 垂坂山観音寺」、裏面に「大正8年4月 四日市市 岩間周吉」と刻まれている。 大きさ:高さ117.0cm、幅31.0cm、奥行17.0cm。 |
名称 | 今上天皇御駐蹕處碑 | 所在地 | 東阿倉川43-4 | ||
沿革等 | 大正天皇が皇太子時代の明治45年4月29日~5月1日の3日間に北勢地方で行われた参謀演習を統監するため、4月29日にこの地に設けられた御野立所に行啓されたのを記念して、大正4年5月にこの碑が建てられた。 翌30日は神前村東方高地、5月1日は生桑西方高地の各野立所に行啓された。 この間、大正天皇は津に宿泊され、毎日、津駅~四日市駅間を国鉄で往復された。
この碑は、大きく傾いて危険なため、平成23年11月に撤去されました。 |
名称 | 天武天皇神宮遥拝所碑 | 所在地 | 大字羽津戊416 |
沿革等 | 日本書紀に「丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の辺にして、天照太神を望拝みたまふ。」とあり、天武天皇(大海人皇子)が、迹太川の辺に進み、天照太神を望遥し、戦勝祈願をしたとされている。このとき、遥拝の場となった丘(山)が額突山(糠塚山)であるという。 この碑は糠塚山の山頂に建てられている。 碑銘では神宮御遥拝所となっているが、当時の伊勢神宮の主神は天照大神ではなく、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)であったと考えられており、伊勢神宮を拝んだというよりも、太陽神である天照太神即ち太陽(朝日)を拝んだと考える方が地形から見ても妥当。 当時は未だ皇祖神でもなかった天照太神をなぜ拝んだのかは不明。久留倍官衙遺跡の建物が東面していることとも関係があるのではなかろうか。 |
名称 | 伊賀留我神社由来碑 | 所在地 | 大字羽津戊523 |
沿革等 | 館通因の撰による由緒が刻まれている。 ⇒「神社・寺院」を参照。 |
名称 | 砲弾 | 所在地 | 大字羽津戊523 |
沿革等 | 「大正元年寄進 海軍一等水兵勲八等 相松弥曾七」と刻まれているが由緒等は不明。 当時は神社に砲弾や兵器を奉納することが流行っており、これもそうしたものの一つと思われる。 あるいは、日露戦争の戦利品かもしれない。 |
名称 | 荒木十兵衛頌徳碑 | 所在地 | 大字羽津戊467 |
沿革等 | 羽津用水は、北鵤の庄屋であった荒木十兵衛が立案し、困難な利害関係を調整して藩に折衝し、これを認めさせ、自ら工事を監督して完成させたと言われている。しかも、用水の完成後の宝永3年(1706年)、十兵衛の俊英を恐れた桑名藩に、褒賞を与えると見せかけて城に招かれ毒殺されたという。この悲運の先覚者の義挙を称えるために、昭和28年(1953年)4月、この頌徳碑がたてられた。北鵤説教所には、荒木十兵衛の位牌が安置されている。 ※羽津用水の開削者については、時の郡代野村増右衛門とする異説がある。 ⇒「羽津用水」を参照。 |
名称 | 殉難者の碑 | 所在地 | 大字羽津戊467 |
沿革等 | 明治13年(1880年)、十四川の下を潜る羽津用水の洞樋(どとう)の改修中の8月10日に、朝から記録的な豪雨があり、洞樋の上の十四川が決壊しそうになった。そのため、北鵤・斎宮の村人たちが油樽に火を点して見守っていたところ、洞樋が崩れ落ち、足元から水が噴き出して、堤防の決壊を警戒していた村人5人とたまたま慰労に来ていた南鵤の区長が濁流に流されて亡くなった。 この碑は、これら殉難者の慰霊の為に建てられたものである。北鵤説教所内に殉難者の位牌がある。 |
名称 | 道標 | 所在地 | 大字羽津戊465 |
沿革等 | 前面に「浄恩寺道」、右面に「昭和弐年三月道路改修記年現住専行」と刻まれている。 大きさは、高さ119.0cm、幅26.0cm、奥行25.5cm。 |