史跡・旧跡


 名称  井詰遺跡  所在地  南いかるが町7・8・9
 沿革等 米洗川南岸の丘陵裾に広がる遺跡で、東西約200m、南北約250mが遺跡に指定されている。昭和56年の調査では、竪穴住居跡や弥生土器、土師器などが発掘されたので、弥生時代から古墳時代の遺跡とされていたが、最近(平成20年)の調査で、平安時代の掘立柱建物3棟、鎌倉時代の土杭1基が確認されたため、大勝寺跡との関連性も考えられている。

 

 名称  大膳寺跡  所在地  南いかるが町18-4
 沿革等 斑鳩山大膳寺は、10世紀に建立された寺院で、延長7年(929年)に慈恵大師が垂坂に観音寺を建てたときに弟子の覚鎮が建てたとも言われている。その後、名僧が続いて法威を保ち近在の人々の篤い信仰を得て隆盛を極めた。第21代空源の時に織田信長に対して伊勢美濃三河の僧徒とともに長島に一揆をおこし、7年間に亘って抵抗したものの、天正2年7月、信長の大軍の前に敗れて空源は戦死した。大膳寺は、この戦闘の際に信長の家臣、滝川一益によって、観音寺とともに焼き払われたとされている。明治末に寺跡からた飛鳥・白鳳時代のものとみられる古瓦が見つかり、伊賀留我神社に宝物として保管されている。
遺跡の範囲は、東西約220m、南北約250m。
昭和52年~56年の一部発掘調査では、竪穴住居跡などを検出したものの寺院の遺構は 確認されていない。この発掘調査では弥生土器、土師器などが見つかっている。
昭和30年3月30日に四日市市指定記念物(史跡)に指定。

 

 名称  大谷瓦窯跡  所在地  
 沿革等 昭和27年(1952年)に採土中に平安時代のものとみられる瓦窯跡が発見された。窯跡からは、大膳寺の造営に使用されたとみられる軒丸瓦と軒平瓦が見つかったが、十分な調査をしない内に宅地開発により消滅してしまった。規模も不明。

 

 名称 吉沢城址  所在地  別名四丁目1付近
 沿革等 区分:城館跡
時代:不明
規模:不明、消滅

別名館跡とも言われる。『三国地誌』に「吉澤堡、按長松與三左衛門之に據る」と記されており、羽津氏の家臣であった長松氏の居城跡と考えられている。

 

 名称  羽津中学校中世基  所在地  
 沿革等 区分:中世墓
時代:室町時代
規模:不明、消滅
検出物:五輪塔、骨蔵器

 

 名称  斑鳩A遺跡(字鵤・糠塚山)  所在地  
 沿革等 区分:遺物包含地
時代:古墳時代後期(7世紀中葉頃)~室町時代
規模:東西約300mX南北約450m
検出物:土師器(鎌倉時代以後の鍋小片)、須恵器(坏身・坏蓋・広口壷口縁・長頚壷・甕破片)、灰軸陶器(碗・皿の破片)、山皿、山茶碗、常滑系陶器(甕・壺の体部片)、美濃瀬戸系陶器(擂鉢ほか)、円形加工陶器片

糠塚山の東側に広がる台地中位面にあり、東側は県道員弁四日市線(9号)、北側は県道上海老茂福線(64号)に接し、南側は浅い谷地形が入り込み鵤の集落がある。標高は16m前後で畑地、荒地、水田及び伊賀留我神社境内となっている。

 

 名称  斑鳩B遺跡(字鵤)  所在地  
 沿革等 区分:遺物包含地
時代:古墳時代後期(7世紀中葉頃)~室町時代
規模:東西約500mX南北約200m
検出物:土師器片(鍋ほか)、須恵器片(坏蓋・甕・壷ほか)、山茶碗片、山皿片、近世陶器片(天目茶碗・白秞皿ほか)、円形加工陶器片

斑鳩A遺跡の南約300mに位置し、米洗川の左岸にあたる。東側は県道員弁四日市線(9号)、南側は県道四日市鈴鹿環状線(8号)に囲まれ、標高10m前後の谷底平野に立地し、水田及び宅地となっている。

 

 名称  垂坂遺跡  所在地  
 沿革等 区分:遺物包含地
時代:弥生時代
規模:東西約230mX南北約180m
検出物:弥生土器

 

 名称  山奥遺跡  所在地  大字羽津字山の奥、大矢知町字鳩浦
 沿革等 区分:集落跡
時代:弥生時代後期~古墳時代後期
規模:東西約250mX南北約250m
遺構:竪穴住居跡(123基)、土器焼成坑、排水溝
検出物:弥生土器、石斧、石鏃、砥石、土錘、土師器、須恵器、鉄製品など

標高20~40数mの比較的平坦な丘陵斜面にある。
昭和52年以降、数次にわたる発掘調査が実施され、大規模でかつ数期にわたる集落の存在が確認された。遺構の規模が大きく保存状態、も良かったが、県道上海老茂福線や北勢バイパスの建設工事などで、その大部分が破壊されてしまった。

 

 名称  羽津広遺跡  所在地  大字羽津字山の奥、大矢知町字北之脇
 沿革等 区分:遺物包含地
時代:弥生時代
規模:東西約130mX南北約350m
遺物:弥生土器(壷、甕、高坏)、石斧などの石器

上記の山奥遺跡と連続し一体をなす遺跡と考えられる。垂坂丘陵沿いに流れる十四川の南岸台地に広がる遺跡で、山林、畑、水田になっている。耕地整理や県道上海老茂福線、更には北勢バイパスの建設などによって周辺環境は大きく変わってしまっている。

 

 名称  中尾遺跡  所在地  
 沿革等 区分:遺物包含地
時代:弥生時代
規模:不明、所在地不明(いかるが町)
検出物:弥生土器、石斧

 

 名称  死人谷横穴群  所在地  大字羽津字糠塚山
 沿革等 区分:古墳
時代:古墳時代
規模:不明、消滅。かっては糠塚山北丘の東面に16基存在していたといわれるが、昭和10年代には丘が削平され古墳もすべて消滅した。
検出物:須恵器、環頭太刀柄頭、鉄刀

鈴木敏雄著『三重県三重郡羽津村考古誌考』によれば鵤村の西北には糠突山の3丘があった。昭和10年(1935年)頃、伊勢電気鉄道(現近鉄)の敷設工事の際に、この北丘の北半が削り取られたようである。この北丘と東丘の間には通称「死人谷」といわれる地域があり、北丘の東面には計16基の横穴古墳が存在した。横穴は約5~6m間隔で並んでおり、各々正面径2m、奥行4mほどの玄室で天井は弧状をなし、玄室内には人骨、副葬品の土器類が見られたようである。副葬品の一部は現存しており、金銅製双竜環頭と金銅装大刀が東京国立博物館にある他、万古工業会館や伊賀留我神社にも須恵器や鉄刀片などが保管されている。

 

 名称  観音寺跡  所在地  垂坂町13-6
 沿革等 区分:寺院跡
時代:平安時代
規模:東西約160mX南北約180m

観音寺は、平安時代の延長6年(928年)に慈恵大師が大乗受戒(万人の救済・成仏を説く仏法の教えを授けること)のため伊勢国に留錫(行脚中、土地の寺院に滞在すること)した際に、当時朝明郡の領主であった船木良見の帰依を受け、伽藍を建立し、7年間修学したところである。
当時の伽藍の規模は広大で、垂坂を中心に茂福に総門、南鵤に中門、東阿倉川に南門、現在地に奥の院、垂坂町に仁王門、如来坊・建長坊・寝禅坊・中の坊・玄性坊・浄光坊・天神堂・薬師堂などの24坊とそれらに関連した建物が、東坂部・山之一色・小杉・平津・中村などに建ち並び、大膳寺・明願寺など多くの末寺が建立されて、伊勢天台別院として栄えていた。安土桃山時代の天正3年(1575年)8月に織田信長の兵火にあって創建当時の伽藍は、焼失してしまい、現在は寺名や地名としてその名残りをとどめているにすぎない。現在の垂坂観音寺は江戸時代の元禄4年(1691年)に桑名藩主の松平定重が奥の院跡に再建したものである。
慈恵大師は、近江国浅井郡の虎姫の里に平安時代の延喜12年(912年)9月3日に生誕、12歳で比叡山に登り、修学後、天台座主に就き、大火で諸堂を焼失した同山を再興して、天台中興の祖と仰がれた。寛和元年(985年)に亡くなったが、それが正月3日であったことから、俗に“元三大師”とよばれている。

 

 名称  糠塚山  所在地  羽津戊416
 沿革等 額突山、斑鳩山、浄恩寺山ともいう。

日本書紀に、「丙戌に、旦に、朝明郡の迹太川の辺にして、天照太神を望拝みたまふ。」とあり、天武天皇(大海人皇子)が、迹太川の辺に進み、天照大神を望遥し、戦勝祈願をしたとされている。このとき遥拝した丘(山)が額突山(糠塚山)であるという。

 

 名称  天武天皇神宮御遥拝所碑  所在地  羽津戊416
 沿革等 糠塚山山頂にある。

碑銘では神宮御遥拝所となっているが、当時の伊勢神宮の主神は天照大神ではなく、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)であったと考えられており、伊勢神宮を拝んだというよりも、太陽神である天照太神即ち太陽(朝日)を拝んだと考える方が地形から見ても妥当。

当時は未だ皇祖神でもなかった天照太神をなぜ拝んだのかは不明。久留倍官衙遺跡の建物が東面していることとも関係があるのではなかろうか。

 ※三重県指定史跡の「天武天皇迹太川御遥拝所跡」が大  矢知町内にある。史跡指定の根拠は、この地に「天武天  皇呪志の松」といわれる幹周り約9m、樹齢500年くらいの  松があったことによるが、この松も枯死した。

 

 名称  糠塚古墳  所在地  羽津戊416
 沿革等 形式、規模は不明。
須恵器、埴輪などが出土。
糠塚山の山頂の頂部にあり、墳丘頂部の標高67.2mのところに上部の碑が建っている。墳丘は墳形をとどめないくらい封土が流出し、西南部の一部を除いて殆ど地山が露呈している。古墳下方の崩土から埴輪や須恵器台の破片が見つかっているが、内部主体などは不明である。

 

 名称  志氐神社古墳  所在地  大宮町14-6
 沿革等 北勢地方では数少ない前方後円墳で4世紀末に築造されたといわれている。『伊勢名勝誌』によると「里人伝えて額田部ぬかたべ〕天津彦根命孫意富伊我都命〔おういがつのみことの墓となす」とされている。当古墳は、海蔵川と米洗川に挟まれて西から東に曲折しながら延びる丘陵部の東端に位置し、標高10mほどの台地上に主軸を南北方向にとって築造されている。
前方部は明治年間に志氐神社境内の拡張と社務所造営の際に破壊され、現在では後円部と北・西側の周濠の一部が残っている。後円部は、東側が道路や建物などによって削り取られているが、規模は直径約30m、高さ約5.3mである。
周濠は幅4.5m、深さは北側にかけて深くなっているが、約2m前後で、くびれ部は後世の埋め土のため濠の形状が変形している。墳丘上には角礫がところどころに散見され葺石の存在が認められる。
嘉永5年(1852年) 前方部と後円部の境目のところに小径を築いた時に副葬品が出土・発掘。
 出土品:内行花文鏡、ヒスイ勾玉、淡碧玉製管玉、空色硝子小玉、車輪石など
 昭和30年3月30日 四日市市指定記念物(史跡)に指定

 

 名称  万葉旧跡四泥能埼碑  所在地  大宮町14-6
 沿革等 下の万葉歌碑の丹比屋主真人の歌の他、名寄せにも知家が四泥の埼を詠んだ歌が収められており、四泥の埼は歌枕になっていたようである。その四泥の埼の場所は、志氐神社のある台地の突端であろうと考えられている。
『勢陽五鈴遺響』では、四泥崎は羽津から富田浦に至る海岸の総名とされている。


名寄せの知家の歌

  けふは誰か御祓をしての崎ゆふとりしてゝ浪もこすらん

 

 名称  万葉歌碑(丹比屋主真人)  所在地  大宮町14-6
 沿革等 天平12年の聖武天皇の御幸の際に、御供の丹比屋主真人〔たじひのやぬしのまひと〕が当地で、妻を思い無事を祈って詠んだとされる歌が万葉集(第6巻1031番)にある。

  後爾之人乎思久四泥能崎木綿取之泥而將住跡其念

  後れにし 人を偲〔しの〕はく 四泥の埼
     木綿〔ゆう〕取り垂〔し〕でて さきくとぞ念〔おも〕


  ※この碑文中の天武天皇行幸年が「天平12年」と記すべ   きところを間違って「天平10年」と記されてため、碑にひ   び割れが入ったのを機に新しい歌碑が追設された。



【注】屋主は途中で帰京して四泥の埼には来ていないため、この歌を詠んだのは、やはり天皇に随行していた屋主の兄の家主
〔やかぬし〕だろうと言われている。

 

 名称  傍示碑「従是北桑名領」  所在地  大宮町14-6
 沿革等 羽津地区は幕末の一時期を除き、江戸時代を通して桑名藩領であった。この碑は文政年間に東海道筋の金場に南面して建てられていたものである。東海道分間延絵図(文化3年)にも「傍示石」として記載されている。
明治9年の伊勢暴動の際に混乱に紛れて長く所在不明となっていたが、大正9年頃、羽津村庄屋伊藤伝十郎宅の庭の敷石になっているのが発見され、羽津村役場入口に移設された。昭和16年(1941年)羽津村の四日市市への合併の際に敷地の関係で別の場所に移され、戦後になって現在の場所に移された。
文字の筆者は松平定信側近の小林穆斉。
大きさ:高さ189.0cm、幅32.0cm、奥行31.0cm。

 

 名称  第1回国勢調査記念碑  所在地  大宮町14-6
 沿革等 大正9年(1920年)に、初めて行われた国勢調査を記念して建てられたものである。
国勢調査を実施するための法律は明治35年(1902年)に成立しており、当初の予定ではその3年後に調査を実施することになっていた。ところが、日露戦争が勃発し、更には第一次世界大戦もあって延期に延期を重ね、15年遅れでようやく実施された。この時の調査は現在のように現住所で行うのでなく、調査日にいたところ、例えば、旅行中の人は旅先の旅館で行ったという。また、台湾や朝鮮などの当時の日本領であった所でも行った。

 

 名称  羽津城跡  所在地  城山町10及び羽津山町22
 沿革等 守護一色氏被官であった赤堀氏の居城の一つで応永5年(1398年)に築城されたといわれている。赤堀氏は、俵藤太藤原秀郷の子孫で、下野国赤堀を本拠としていたが、田原孫太郎景信が、応永年間(1394~1428年)に古東海道近くの伊勢国栗原に築城して赤堀と称し、その後海関の羽津に長男右衛門大夫盛宗を置き、羽津氏を称した。盛宗は、現在の城山を主たる保塁とし、その南側(阿下)に重臣岩田縫殿・森雲竜軒景宗を置き、志氐神社北側(吉沢)には長松長右エ門を配置して鶴翼の陣形を整え、城山の西に陣屋を造り、その西方に正法寺を開基して、その付近一帯を寺領(寺山、会下)とした。羽津氏は、伊勢国司北畠家に仕え、その後、宗久、宗善、宗慶、宗昌、近宗(国虎)と6代約170年続くことになる。

永禄11年(1568年)織田信長の伊勢侵攻の際に織田に服従し、滝川一益の与力となった。元亀2年(1571年)、茂福城主朝倉氏が滝川一益によって長島城に誘殺され、茂福城も滝川勢に攻められ落城し、一益は目代として山口次郎四郎を置いた。山口氏は、支配を強固なものにするため赤堀氏の謀殺を企て、6代目近宗は、元亀3年(1572年)6月晦日、茂福城で饗応を受け毒殺された。その後遺臣が城を守ったがやがて落城。織田信長の命により滝川新左衛門がしばらく居城した。
城は平野部から伊勢湾を一望におさめ、街道を抑えるとともに、海上交通を支配することができる好位置にある。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉は、織田信雄・徳川家康連合軍との小牧・長久手の戦いに際して、犬山城に布陣し、木曾三川を自然の要害として桑名城に陣を構えた織田信雄と対峙したが、膠着状態に陥り、これを打破するために、この羽津城に回り込んで陣を張り、織田信雄を追いつめて講和に持ち込んだとされている。その後、羽柴秀吉と織田信雄との間の講和条件に伴い廃城となった。以後、羽津城跡は荒れるにまかせ竹林化していたが、昭和2年(1927年)、伊勢電鉄(現在の近畿日本鉄道名古屋線)の敷設工事に際し、城跡の保存が計画され公園となった。
現在、城跡の中央を近鉄線が横切っており、本丸跡の保塁と内堀の一部が残存、かっての城館の面影をわずかにとどめている。
昭和31年2月18日 四日市市指定記念物(史跡)に指定。東西約100m、南北約110m。

初代城主の開基した曹洞宗正法寺には、寺の由緒書とともに羽津家6代にわたる城主の過去帳が残されている。城館に使用された古瓦が大正年間に城跡の畑中より掘り出され、志氐神社と正法寺に奉納された。

5代宗昌の時代、会下に住んでいた家老の舘道仙を城山の東側に住まわせて、町づくりに当たらせたという。舘道仙は、光明寺を大矢知育木谷より、自分の屋敷の向かい側に移し、これを中心(中村または本郷と呼ぶ)として南へ中南条、南条、北へ中北条、北条と街道沿いに逐次町づくりを行い、これを羽津村と総称した。元の舘道仙邸を今でも「道仙喜(または道仙起、道仙屋敷)」と呼んでいる。
森、児島、岩田、梅本、味香の姓は、羽津氏の家臣団の後裔という。

 

 名称  垂坂山古戦場  所在地  大字羽津字南岡山
 沿革等 南北朝時代に、南朝が任命した国司と北朝・室町幕府が任命した守護との対立抗争が頻発し、伊勢守護仁木義長と茂福城主朝倉下総守らが垂坂山で戦った。
『北畠系譜』によると、南北朝の頃文中元年(1372年)、南富田の地頭南部左京亮頼勝が国司に背いて挙兵し仁木義長とともに大矢知城に籠った。南朝側は朝倉氏らが大矢知城に攻めかけたが、多勢の仁木勢に敗退し、逆に茂福城を仁木勢に囲まれてしまった。これを早馬で伝え聞いた北畠氏は重臣の大宮父子入道を急遽派遣した。北畠軍は、2,000騎を率いて同山に陣取った。一方、それに気づいた仁木軍は、500騎でこの山に攻め上ったが、大宮父子入道の戦略にかかり囲まれて谷底に追い落とされ散々に打ちのめされ、落ち延びた者も茂福城の朝倉軍らに攻められて全滅した。

また戦国時代、織田信長が伊勢を攻めたとき、付近の女、子供、農民たちが同山上にあった寺院に難を逃れたが滝川一益らのために焼き打ちされて多くの死者を出したともいう。

現在、山頂付近に宝筺塔が建っているが、あるお坊さんがこの付近で多くの霊が漂っているのを感じ取り、それを鎮めるためにこの塔を建てたといわれている。

 

 名称  垂坂山(羽津山)  所在地  
 沿革等 御祓岡(みそぎがおか)、岡山、台の山ともいう。天武天皇(大海人皇子)が、この岡上で修祓を行ったことから御祓岡と呼んだが、後に略して単に岡山というようになった。また、修祓の際に大麻(ぬさ)を坂の上に垂れさせたことから垂坂の地名が起こったという。垂坂山を「しでさかやま」と読ませることもある。

 

 名称  垂坂古窯跡  所在地  
 沿革等 時代及び規模は不明。
かって、窯体部が露出していた。

 

 名称  防空壕跡  所在地  
 沿革等 戦時中の防空壕の跡で2基あったとされる。現在は半ば埋まっており、入り口部が確認できる。

 

 名称  「かわらづ」の松、旧東海道の町並み  所在地  八田一丁目1-7
 沿革等 旧東海道の松並木の面影を残す数少ない松で、市内では日永地区とここの2本だけが残っている。昭和50年頃までは、車検場の付近などにまだ松並木が残っていたが、松喰い虫の被害に遭ってほとんどが枯死し、切り倒されてしまった。
この辺りは昔「川原津(または川原須)」と呼ばれていたので、その地名に因んで「かわらづの松」と名付けられている。

 

 名称  常夜灯  所在地  八田三丁目7-41
 沿革等 旧東海道を往来する人々の為に建てられたもので、現存のものは明治35年に建てられた。
台石の四囲には、建造費を寄付した人の名前が刻まれている。

 

 名称  志氐神社-の鳥居  所在地  羽津町15-29
 沿革等 志氐神社の一の鳥居で、東海道から志氐神社に通じる参道の入り口に位置する。この参道が本来の参道で、拝殿から南に延びている参道は後で設けられたものである。

 

 名称  夫婦石  所在地  羽津町15-29及び羽津町10-11
 沿革等 鳥居の傍にある地上1mほどの自然石と東海道を隔ててほぼ反対側にある50cmほどの二つの石を夫婦石と呼び、縁結びや夫婦円満の願いを込めて村人や旅人が手で撫でたものである。
由緒は不明であるが、昔の三重郡界の標石であるとも言われる。

 

 名称  石灯籠  所在地  羽津町15-29
 沿革等 2基あり、1基は文政元年(1818年)の建立で、五穀成就と刻まれており、願主世話人として森玄佺(山の医者)、森玄隆(町の医者)他の名が刻まれている。他の1基は、天保11年(1840年)の建立で八幡宮御神前国家安全、天下泰平と刻まれている。これは、元来、八幡神社の前にあったもので、八幡神社が志氐神社に合祀された後にこの場所に移された。

 

 名称  森源八酒店  所在地  城山町8-18
 沿革等 江戸時代には夫婦鈴という土鈴を造って土産として販売し「鈴屋」と呼ばれていた。
明治初期に森源四郎氏が酒造業を起こし、その後名跡を森源八商店に変更した。昭和56年(1981年)まで酒造りが続いたが、現在は森源八商店として酒販業が営まれている。

 

 名称  新田  所在地  羽津甲
 沿革等 江戸時代以降、海岸部の砂州や湿地帯を埋め立てて、田圃が造られた。こうした所を新しい田圃ということで新田と呼んだ。白須賀も江戸時代に開発された新田で、当初は白須賀新田と呼ばれていた。JR関西線以東がほぼ江戸時代以降に新田開発によりできた土地に当たる。富士電機の東側のJR関西線と国道23号縁の間がかっての古新田、霞ヶ浦緑地に豊広新田、戌亥新田、中亥新田、藤谷新田、八幡新田、乙新田などがあった。戌亥新田など現在の霞ケ浦緑地のエリアは安政元年(1854年)11月4日(12月23日)の安政東海地震(M8.4)によって水没し、長らく放棄されていたが、大正期に霞ヶ浦土地株式会社が設立され埋め立てられた。

安政時代には、地震が多発しており安政東海地震に続いて32時間後の翌11月5日には安政南海地震(M8.4)、3日後の11月7日(12月26日)には豊予海峡地震(M7.4)と巨大地震がわずか4日の間に3つ続いたほか、その前の6月15日(7月9日)には安政伊賀地震(M7.6)が起こっており、安政2年(1855年)では(3月18日)に金沢などで(M6.5)、10月2日(11月11日)に安政江戸地震(M6.9)、安政4年(1857年)では(10月12日)に伊予、安芸、今治で、安政5年(1858年)では2月26日(4月9日)に安政飛越地震(M6~7)が起こっている。
嘉永から安政への改元は11月27日だったので、上記の安改元年の地震はすべて嘉永年間に発生しているが、改元後の安政を冠して呼ばれている。
普通、安政の大地震という場合は、安政江戸地震を指す。この地震規模はそれほど大きくなかったので、地震による倒壊等の直接的被害は比較的少なかったが、火災により大きな被害を出したために、その記録が多く残されている。


バブル期に計画された四日市市の再開発計画の一環で、JR四日市駅前後のJR線を高架化し、JR貨物四日市駅の貨物施設は移転させて、近鉄四日市駅方面とJR四日市駅を結ぶ中央通りを四日市港まで延伸する案があった。国道23号線とJR関西線に挟まれた古新田地区が、貨物施設の移転候補地となり、四日市市により土地買収が進められたが、完全買収に至らず、移転計画が具体化しない間に、経済情勢も変化して実現性が疑問視されるようになっている。市が買収した土地は現時点では活用されずに放置されている。

 

 名称  霞ヶ浦緑地  所在地  羽津甲
 沿革等 霞ヶ浦の地は、江戸時代、伊勢国朝明郡羽津村が開発した土地で、戌亥新田、豊広新田(豊広家が開発)などがあったが、いずれも安政東海地震によって水没したり荒廃したりした。その後、大正9年(1920年)小菅剣之助、伊藤伝七、村瀬周輔らによって、10万坪にも及ぶ霞ヶ浦の埋立による農地開発が計画され、同時に遠浅の海岸を取りこんだ遊園地が建設された。埋立は大正12年(1923年)に完成し、霞ヶ浦海水浴場と住宅地が造成された。大正13年(1924年)には霞ヶ浦土地株式会社が設立され、遊園地は遊楽園として経営され、夏には多くの海水浴客で賑わった。
  1. 小菅剣之助 元治2年1月24日(18645年2月19日)~昭和19年(1944年)3月6日。名古屋市出身。将棋の棋士だったが相場師に転じ、失敗するたびに場所を変えたが、明治33年(1900年)に四日市市に落ち着いた。その後株式売買、木材取引、土地開発に着手。大正9年(1920年)に当時の三重県1区から第14回衆議院議員選挙に立候補して当選し1期務めて引退。実業家としては、四日市鉄道(現在の近鉄港の山線)などの創設のほか、東海電力、静岡電力、静岡電気鉄道などに名を連ねた。地元では、市民病院、公会堂、商工会議所等を建設し四日市市に寄付をした。
  2. 伊藤伝七 嘉永5年(1852年)~大正13年(1924年)8月12日。三重郡室山村の酒造家に生まれる。明治13年(1880年)、川島村に三重紡績所を創設。渋沢栄一の知遇を得て、明治19年(1886年)には近代的技術と株式会社組織の三重紡績会社を設立。日清戦争中の旺盛な需要に恵まれて業績を拡大し、三重県と愛知県下の紡績会社を次々と合併して日本屈指の紡績会社になった。
    大正3年(1914年)には大阪紡績と合併して東洋紡績を設立し、大正5年(1914年)から9年(1918年)まで社長を務めた。その傍ら、明治大正期の四日市の企業勃興に際し多くの新設企業に投資した。四日市商工会議所副会頭、貴族院議員を歴任。
  3. 村瀬周輔 株の仲買人として、多くの紡績会社株を持っていたらしい。
昭和3年(1928年)には伊勢電鉄が開通して羽津駅が開設され、その北方500mに臨時停車場が設置され交通が至便となり、昭和4年(1929年)には競馬場が開設され、霞ヶ浦は一大レジャーセンターになった。羽津駅は昭和13年(1938年)に廃止され、臨時停車場が現在の霞ヶ浦駅となった。
昭和34年(1959年)の伊勢湾台風では当地も多大な被害を受け、この後建設された防潮堤により海岸の利用に制約が生じたことなどにより、海水浴場も昭和35年頃にはなくなった。
戦後の工業開発の波は、霞ヶ浦にも押し寄せた。昭和30年代前半には霞ヶ浦への八幡製鉄銑鋼一貫工場の誘致計画が推進された。昭和35年(1960年)誘致に伴う漁業補償が調印され、市議会全員協議会の承認も得て、埋立工事着工目前まで行ったが、ボーリング調査などの結果、地盤が軟弱だということが判明し、八幡製鉄の誘致計画は頓挫した。その後、石油化学コンビナートを誘致する計画に変更され、昭和42年(1967年)10月に主として海岸浚渫による霞ヶ浦第1期埋立工事が始まって、昭和47年(1972年)4月には石油コンビナート用地として完成した。
霞ヶ浦緑地は、それまでの第1・第2コンビナートでの教訓から、コンビナートと住居区域とを隔てる緩衝緑地として計画され、第3コンビナート各社の費用負担により建設され四日市市に寄贈されたもので、昭和46年(1971年)2月に着工し、四日市市は、競輪場の整備や各種スポーツ施設などの公園施設の建設を進め、昭和48年(1973年)3月に完成した。
昭和47年(1972年)には、霞ヶ浦のコンビナートの地先で、第2期埋立工事が開始された。埋立には四日市港の浚渫土砂が主に用いられたが、山土も必要なために糠塚山の西側で採土し、これを運ぶために高架式のベルトコンベアが設置された。第2期工事は昭和56年(1981年)2月に竣工した。埋立の完了後にべルトコンベアは撤去され、その跡に昭和59年(1984年)3月、県道富田山城線が建設された。コンビナートの北側では、昭和46年(1971年)に霞埠頭の埋め立てが開始され、大型船が接岸できる岸壁やコンテナヤード等の港湾施設が順次整備されてきたが、現在も北埠頭の埋め立てが継続中である。