神社・寺院


神社編
寺院編

志氐神社

   

 

  【所在地】 字大宮西 (現住所:大宮町14-6)
【祭神】 気吹戸主神〔いぶきどぬしのかみ〕(配祇)、伊邪那岐命〔いざなぎのみこと〕(神明社を含む)、伊邪那美命〔いざなみのみこと〕
(合祀)上筒之男命〔うわつつのをのみこと〕、中筒之男命〔なかつつのをのみこと〕、底筒之男命〔そこつつのをのみこと〕(住吉社)、応神天皇(八幡神社)、大山祇神〔おおやまづみのかみ〕(山神社)、奧津日子神〔おきつひこのかみ〕、奧津日女神〔おきつひめのかみ〕(荒神社)、久那斗神〔くなどのかみ〕(長谷神社)、祭神不詳(社宮神社)
『再考』 神稲霊
『考証』、『古屋草紙』、『勢陽雑記拾遺』、『勢陽俚諺』、『伊勢名所図絵』 大神宮荒御魂
『志氏神社記』 伊吹戸主神〔いぶきどぬしのかみ〕
【社格】 旧県社
【由緒】 創祀年代は明らかでないが、社記では垂仁天皇の頃からとしている。

  垂仁30年 (1年) 志氐神社創祀
弘文1年 (672年) 大海人皇子(後の天武天皇)が、壬申の難を避けて、吉野から鈴鹿を経て桑名の頓宮に向かった時に、迹太川〔とおがわ〕の辺で天照大神を遥拝するために、ここに木綿〔ゆう〕取り重〔しで〕て禊をされたので、御幣に因み「シデ」の名が起こり神社の名となったとされている。皇子がお祓いをされた岡が御祓岡(今の岡山)、天照大神を望拝された山が額摘山〔ぬかつかやま〕(今の糠塚山)であり、望拝の時に献じる米を迹太川で洗ったので以後これを米洗川と称するとされている。
天平12年 (740年) 聖武天皇が藤原広嗣の乱を避け、北伊勢地方に御幸。
延長5年 (927年) 延喜式内社となる。
応永の頃 田原藤太藤原氏郷の後裔である赤堀盛宗が羽津城を築き、その後6代居城し、代々当社を崇敬した。
天正12年 (1593年) 羽柴秀吉が羽津城に駐陣して、桑名の織田信雄〔のぶかつ〕に対した時、数次当社に参詣して戦勝を祈願した。太刀奉納。
慶長3年 (1598年) 徳川家康により再建。最古の棟札現存。
志野焼狛犬一対奉納
慶長5年 (1600年) 桑名城主本田忠勝が当社に神田を寄進した。
寛永4年 (1627年) 「志氐神社高野御前」社号額奉納。
元禄15年 (1702年) 織部焼狛犬奉納。
嘉永5年 (1852年) 古墳出土品発見。
明治2年 (1868年) 天皇御東幸に際し官幣使亀井隠岐守が来社。
明治6年 (1873年) 郷社となる。
明治20年 (1887年) 羽津旧5ケ村(羽津村、吉沢村、別名村、八幡村、鵤村)が合併し、羽津村となる。
明治39年 (1906年) 神社合祀令発布。明治40年~42年にかけ、神明社(白須賀)、住吉社(志氐神社境内社)、八幡神社(八幡)、長谷神社(別名)、荒神社(別名)、各字の山之神を本殿に奉斎し、その他の祭神を境内社に合祀した。
明治40年3月9日  荒神社(字大門)を長谷神社(字宿神)に合祀
明治40年7月11日 山神社(字森下)を八幡神社(字八幡西)に合祀
明治40年11月25日 春日社(境内社)、八幡社(境内社)、八天宮社(字  宮東)、厳島社(字里東)、天満社(字天神)、稲荷社(字南岡山)、  愛宕社(字北岡山)、邪軍神社(字大宮西)、鎮守社(字大宮西)を境  内社の天王社(明治40年12月1日に須賀社)に合祀
  諏訪社(境内社)、熊野社(境内社)、山神社(字宮東・字城山・字城  山・字天神東・字田市場・字大宮西・字大宮西の各所)、山上神(字城  山)を境内社の御山御前に合祀
明治40年12月1日 天皇社(境内社)を須賀社(境内社)に合祀
  御山御前(境内社)を大宮能膏社(境内社)に合祀
明治41年2月15日 住吉社(境内社)、八幡神社(字八幡西)、神明杜(字  白須賀)を本殿に合祀
  神明社(字白須賀)の境内社である住吉神社と山神社を大宮能膏社に合  祀
明治41年5月5日 境内社の住吉社を本殿に合祀
明治42年9月21日 長谷神社(字宿神)の境内社である山神社と社宮神社を  長谷神社に合祀
明治42年9月22日 長谷神社(字宿神)を本殿に合祀
昭和6年 (1931年) 県社に昇格。
昭和21年 (1946年) 社格制度廃止。

【社殿】 本殿神明造桧皮葺
  拝殿、神饌所、手水舎、社務所、使丁舎、神馬舎、倉庫
【境内社】 須賀社 【祭神】 建速須佐之男命けんはやすさのをのみこと〕、天児屋根命〔あめのこやねのみこと〕(境内社春日社)、 応神天皇(境内社八幡社)、火之迦具土神〔ほのかぐつちのかみ〕(八天宮社、愛宕社)、市杵島姫命〔いちきしまひめのみこと〕(厳島社)、菅原道真公(天満社)、稲倉魂命〔いなくらたまのみこと〕(稲荷社)、祭神不詳2柱(邪軍神社、鎮守社)計9柱神
大宮能売社 【祭神】 天宇受賣命〔あめのうずめのみこと〕、建御名方神〔たてみなかたのかみ〕(諏訪社)、速玉之男命〔はやたまのをのみこと〕(熊野社)、大山祇命(山神社)、神遍大神〔かみのべのおおかみ〕(山上神)、上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命(神明社境内社住吉神社)計8柱神
妻恋稲荷神社 【祭神】 日本武尊〔やまとたけるのみこと〕、弟橘媛命〔おとたちばなひめのみこと〕、稲倉魂神〔うかたのみたまのみこと〕
  志氐神社の神主であった森泰友氏宅の庭内にあったものを、遷座したもので、子供の虫  封じ、家内安全、生業繁昌、願望成就の神として崇敬されている。

 

 境内の史跡等

 神社所蔵文化財

 

 

伊賀留我神社

   

 

  【所在地】 字班鳩 (現住所:羽津戊523)
  【祭神】 天照大御神荒魂、(合祀)大年神(斎宮神社)、大山祇神(山神社)、天武天皇(天武天皇社)、祭神不明(邪軍神社)
  ※《参考》北伊賀留我神社の祭神:大日霊気命、(配祇)大山祇命
『考証』意富伊我都命
『再考』倉稲魂
『勢陽雑記拾遺』、『古屋草紙』大日霊貴
  【社格】 旧郷社
  【社地】 東西17間南北40間、面積207坪
  【由緒】 天正の織田信長の北伊勢進攻の際に、当神社も焼かれて伽藍や神社所有の古記が焼失し、創祀年代は不明。社伝によると、垂仁天皇のとき倭姫命が天照大神を奉斎して野代官(桑名)から忍山宮(鈴鹿)への遷幸中に休んだ場所に、額田部の子孫、天津彦根命の孫、意富伊我都命の遠孫が天照大神の荒御魂を祀ったと伝えられる。社名は鵤御厨の地名より起こったとされている。
明治6年3月 村社
明治35年2月13日 郷社
  【社殿】 本殿神明造銅板葺
  拝殿、手水舎、社務所、倉庫
  【祭日】 1月17日、10月17日
    寛永年間に鵤村が南北に分かれ、北鵤村は桑名藩領、南鵤村は忍藩領となった際に、南鵤村に新たに南伊賀留我神社を祀ったとされている。江戸時代は斎宮大明神と称していた。
南伊賀留我神社には別当寺として斑鳩山大膳寺があったと伝えられ、円融天皇天延2年伊勢に下向した比叡山の僧良源の弟覚鎮が開創し別当となったという。
明治40年12月3日に、摂社や鵤村内の神社を合祀。

 境内の史跡等

 

御嵩神社

     

 

  【所在地】 字糠塚山 (現住所:羽津戊416)
  御嶽山を信奉する鵤地区の伊藤孫四郎氏が勧請したもので、伊藤家が中心になって運営されてきたが、現在は伊藤家の手を離れ、宗教法人(御嶽教三重神識教会)が所有・運営している。
地元の人によると、戦後、禿げ山だった糠塚山で遊んでいたころにはこの神社はなかったということで、境内に多数ある諸々の神の石碑の建立年代の最古のものが昭和29年であることから、この頃に設置されたものとみられる。

 

 

かっては羽津村各所に大小の神社が散在したが、明治の神社合祀令により志氐神社や伊賀留我神社に合祀された。その後に、個人宅で祀られた神社もある。

廣瀬家で祀っている神社

       

 

  【所在地】 羽津町8-20
  【祭神】 木花咲耶姫
  【由緒】

廣瀬氏がこの地を買った当時は現在の母屋の南側(納屋がある辺り)は畑地で、畑を耕しているときに鍬が石に当たり邪魔なので掘り起こされた。大きさが丁度いいということで漬物用の重しに使われた。
その後、軒下の雨だれ受けになっていたが、表面にお多福のような文様が見えることから、志氐神社や諏訪神社などに見てもらったところ、「このはなさくやひめ(木花咲耶姫)」のご神体であろうとの見立てであった。志氐神社で祀るというのを、当時の当主が断って自宅で祀った。鎮座は昭和15年。それ以来、廣瀬家の神社として祀っている。

  【祭日】 4月3日
    当地に移って現当主で4代目。社殿は3代目。灯籠は昭和49年12月に、鳥居は平成4年5月に各々、木製から石造りに更新した。祭りは、4月3日が本祭り、1月3日に正月の祭りを行ってきたが、最近は離れて暮らしている家族が集まれる4月の日曜日を選んで本祭りだけを行っている。

 

服部家で祀っている神社

       

 

  【所在地】 羽津町8-22
  【祭神】 市杵島姫
  【由緒】 服部家は小杉から昭和17年に当地に移ってきた。昔は池があったといわれているが、当時は既に池は埋め立てられてしまって畑地になっていたのを購入した。服部家が購入するより以前に、この地に家を建てて住んでいた人があったが、家族が不慮の死を遂げるなど気色が悪いことがあったということで引っ越した。 土地を購入後、服部家のご当主が志氐神社に聞きに行ったところ、既に志氐神社に合祀してあるが、かってはこの地に「導仙喜」と呼ばれる屋敷があって市杵島姫(いちきしまひめ)を祀った厳島神社があったということを教えてもらったので、お祀りすることにした。
  【祭日】 4月17日
    最初は石碑だけだったが昭和20年に神殿を建てた。ご神体は志氐神社からいただいた。祭りは4月に行う。嘗ては秋が本祭りで9月に行っていたが、今は春だけしかやっていない。春も実際には17日に近い日曜日に行っている。祭りの際には幟や旗を立てている。

 

 

明治の合祀時点で旧各村に存在した神社(旧社)は下記の社々である。

旧羽津村に属したもの

天王社

  【跡地】 志氐神社の摂社につき同神社の境内
【祭神】 建速須佐之男命〔たてはやすさのをのみこと〕

 

御山御前〔みやまみまえ〕

  【跡地】 志氐神社の摂社につき同神社の境内
【祭神】 天宇受賣命〔あめのうずめのみこと〕

 

春日社

  【跡地】 志氐神社の摂社につき同神社の境内
【祭神】 天児屋根命〔あめのこやねのみこと〕

 

八幡社

  【跡地】 志氐神社の摂社につき同神社の境内
【祭神】 応神天皇〔おうじんてんのう〕

 

諏訪社

  【跡地】 志氐神社の摂社につき同神社の境内
【祭神】 建御名方命〔たてみなかたのみこと〕

 

熊野社

  【跡地】 志氐神社の摂社につき同神社の境内
【祭神】 速玉之男命〔はやたまのをのみこと〕

 

住吉社

  【跡地】 志氐神社の摂社につき同神社の境内
【祭神】 底筒之男命〔そこつつのをのみこと〕・中筒之男命〔なかつつのをのみこと〕・上筒之男命〔うわつつのをのみこと〕

 

山神社

  【跡地】 字城山1544番地 (現在の羽津山町3-15)
【祭神】 大山祇命〔おおやまつみのみこと〕
【社地】 東西3間、南北10間、面積19坪
【祭日】 7月25日

 

山上社

  【跡地】 字城山563番地 (現在の大宮町1-2)
【祭神】 神辺大神〔かみのべのおおかみ〕
【社地】 東西5間、南北5間3尺、面積21坪
【祭日】 7月7日

 

稲荷社

  【跡地】 字西岡山2番地 (現在の羽津甲26番地)
【祭神】 稲倉魂命〔いなくらたまのみこと〕
【社地】 面積22坪
【祭日】 4月9日

 

天満社

  【跡地】 字天神東1109番地 (現在の羽津山町5-9)
【祭神】 菅原道真命
【社地】 東西16間、南北4間、面積58坪
【祭日】 7月25日

 

山神社

  【跡地】 字天神東1117番地 (現在の羽津山町4-27)
【祭神】 大山祇命
【社地】 東西17間、南北4間、面積63坪
【祭日】 7月25日

 

山神社

  【跡地】 字天神東
【祭神】 大山祇命
【社地】 面積60坪
【祭日】 7月25日

 

厳島社

  【跡地】 字里東(民有地)
【祭神】 市杵島姫命〔いちきしまひめのみこと〕
【社地】 面積58坪
【祭日】 9月17日

 

八天宮社

  【跡地】 字宮東向
【祭神】 火之迦具土神〔ほのかぐつちのかみ〕
【社地】 無し。道敷にあり。
【祭日】 11月3日

 

山神社

  【跡地】 字大宮東3682番地 (現在の羽津町11-12 南町会館)
【祭神】 大山祇命
【社地】 面積25坪
【祭日】 7月25日

 

山神社

       
  【跡地】 宇田市場
【祭神】 大山祇命
【社地】 面積296坪
【祭日】 7月25日(羽津村)
11月6日(八幡村)
羽津村、八幡村、鵤村の祭神である。

 

 

旧八幡村に属したもの

八幡神社

       
  【跡地】 字八幡西
【祭神】 品陀和気命〔ほんだわけのみこと〕(応神天皇)
【社格】 旧村社
【由緒】 勧請年紀は不詳。江戸期、寛永11年(1634年)8月26日、鍵立八幡宮の棟札があり、当時一国一社にして、村名も八幡と称し、皇国66拝の一つに数えられている古社である。
【社地】 東西10間、南北55間。境内地は神社跡碑より北方へあり、713坪。松樹の大木があった記録がある。
【社殿】 本社長3尺3寸、弘4尺
【祭日】 8月15日

 

山神社

  【跡地】 字森下
【祭神】 大山紙命
【社地】 東西5間、南北11間、面積51坪
【祭日】 11月6日

 

神明社

       
  【跡地】 字白須賀
【祭神】 伊邪那岐命
【社格】 旧村社
【社地】 東西20間、南北21間、面積232坪。
【祭日】 10月17日
【摂社】 住吉社 【祭神】 底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命
     【祭日】 6月29日
明治41年(1908年)2月15日 志氐神社境内社の大宮能賣社に合祀。
山神社 【祭神】 大山祇命
明治41年(1908年)2月15日 志氐神社境内社の大宮能賣社に合祀。

 

 

旧吉沢村に属したもの

山神社

  【跡地】 字大宮西
【祭神】 大山祇命
【社地】 東西5間3尺6寸、南北5間3尺6寸、面積31坪
【祭日】 7月25日

 

山神社

  【跡地】 字大宮西
【祭神】 大山祇命
【社地】 東西5間、南北5間、面積23坪
【祭日】 7月25日

 

愛宕社

  【跡地】 字北岡山
【祭神】 軻遇完知命〔かぐつちのみこと〕
【社地】 東西10間、南北17間、面積64坪
【祭日】 2月24日

 

邪軍〔じゃぐ〕神社

  【跡地】 字大宮西
【祭神】 不詳であるが猿田彦命とも云われる
【社地】 面積15坪
【祭日】 7月26日

 

鎮守社

  【跡地】 字大宮西
【祭神】 不詳であるが吹戸主神〔いぶきどぬしのかみ〕とも云われる
【社地】 面積21坪
【祭日】 2月17日

 

 

旧別名村に属したもの

長谷神社

  【跡地】 字宿神643番地 (現在の別名四丁目8-23)
【祭神】 久那斗神〔くなどのかみ〕又衝立船戸神或は宿神〔しゅくしん〕とも云う。
【社格】 旧村社
【社地】 東西22間、南北14間3尺、面積291坪
【由緒】 創祀年代は詳らかでないが延喜の制で名神小社として神社名が列ねられている古社である。
延書の時名神小社たり、延書式神名記に云う朝明郡長谷神社は神名帳考証に云う長谷神社岐神。
古事記に云う於投棄御杖所成神名衝立船戸神今別名村称志久神之祉孜志久道敦乎。神名帳考証加筆長谷神社衝立船戸神云々。
式社案内記別名村に坐す長谷神社と見ゆ。伊勢賦に長谷は別名宿神とあり、其他伊勢国絵図本居校正及び三国地誌郷名篇、北勢古志、古谷双紙、俚言抄皆長谷神社俗に宿神と云えり。天正年間織田信長の兵火に罹り書類悉皆焼失して今拠るべき書なしと雖も、古来の伝説に宿神とも、岐神とも、久那戸神とも、衝立船戸神とも云い、何れにせよ伊邪那岐命の御杖に成立の神にして、同神にましませりとす。
別名村の宿神として古来鎮座してきた。江戸時代は別名村の志久神の社と称していた。永禄天正の間の織田信長の北伊勢平定の際に兵火に遭い、古社記はすべて烏有に帰したという。
明治6年3月村社に列格
明治42年9月22日 志氐神社に合祀
【祭日】 7月21日、9月21日
【末社】 山神社  【祭神】 大山祇命
社宮神社 【祭神】 不詳なれど猿田彦命か
志氐神社への合祀後の跡地に碑が建てられ、拝殿も残っていて、森家4代に亘り守られてきたが、平成13年に老朽化により拝殿が取り壊されたのに伴い、碑も志氐神社境内に移設された。

 

山神社

  【跡地】 長谷神社の末社につき同神社跡
【祭神】 大山祇命

 

社宮〔しゃぐ〕神社

  【跡地】 長谷神社の末社につき同神社跡
【祭神】 不詳であるが猿田彦命といわれている

 

荒神社〔こうじんしゃ〕

  【跡地】 字大門578番地 (現在の別名四丁目14-18)
【祭神】 奥津彦命、奥津姫命
【社地】 東西29間3尺、南北6間、面積177坪
【祭日】 10月17日

 

 

旧鵤村に属したもの

斎宮〔いつき〕神社

  【跡地】 伊賀留我神社の摂社にて同神社の境内
【祭神】 倭姫命
  【祭日】  1月17日、10月17日

 

天武天皇社

  【跡地】 字糠塚山小字北山397番地(現在の大字羽津戊533-1)
【祭神】 天武天皇
【社地】 東西26間、南北27間
【社殿】 檜皮葺本殿、拝殿、鳥居
【祭日】 3月13日、7月13日

 

旧 社軍〔しゃぐ〕神社

  【跡地】 字班鳩
【祭神】 不詳。拝殿の額には八衢比古命〔やちまたひこのみこと〕とあり、八衢比賣命〔やちまたひめのみこと〕との双神とも言われる。
【社地】 東西2間5尺5寸、南北10間
【祭日】 9月26日

 

山神社

  【跡地】 字大谷420番地 (現在の大字羽津戊746-11)
【祭神】 大山祇命
【社地】 東西6間3尺、南北4間3尺
【祭日】 2月6日、11月6日

 

山神社

  【跡地】 字糠塚山758番地 (現在の大字羽津戊418-33.)
【祭神】 大山祇命
【社地】 東西20間、南北9間
【祭日】 2月6日、11月6日