神社・寺院


寺院編
神社編

光明寺

       

 

光明寺は、元々は大矢知村青木谷にあったという。弘仁年間に空海が諸国を巡回した時に小堂を建てたのが始まりと伝えられている。寛正元年(1460年)に下野国高田の専修寺第10世眞慧上人が諸国巡化の際、最初に近江国坂本の妙林院から光明寺に来錫し、約1年間在住して付近を教化した時に当時の住職が改宗して浄土真宗高田派に転じたとされる。

享禄年間(1528~1531年)に、羽津城主赤堀左京大夫盛義(宗昌)が出家して光明寺に入り善願と名乗り、現在地に寺を移して初野山青木堂光明寺と称した。天正年間(1573~1591年)に京都興正寺の勧めにより高田派から本願寺派に転じたとされる。

眞慧上人は伊勢国内を南下しながら教化を続け、寛正5年(1464年)に一身田に至り、ここに本山を移した。文亀2年(1502年)上人は伝燈を応真上人に譲ったが、さらに教勢の強化を図り、永正8年(1511年)後柏原天皇の皇子常盤井宮真智上人を養子に迎えた。そのため、眞慧上人の死後、跡目争いが起こったが、応真派が優勢で、美智上人は越前の坂井郡熊坂に別に専修寺を建てて移った。この際、光明寺ほ真智上人側につき、真智上人が越前に移ったときに一身田専修寺派を離脱したという。この時の因縁から、明治になって姓氏をつける際に常盤井宮の宮名を名乗ることになった。

寛文3年(1663年)2月12日に、雷災により堂宇、宝物、記録等一切を焼失し、創建の年月、開基の事蹟、中古世代住職名等すべて不明である。 第5世俊応の妹せつが青蓮院宮に仕えた関係で、皇族所縁の品々を下賜され保管していたが、戦災で焼失した。
慶長9年(1604年)に顕如上人影像が、また寛永10年(1633年)に上宮太子及び三朝七高僧の画像が下付されており、寺院化したのは江戸時代に入ってからであろうという説もある。

四日市市史によると、本堂、鐘楼、庫裡が寺院建築として文化財的価値があるとされている。

 

境内にある史跡等

森多三郎記念碑

文久元年(1861年)、桑名藩が過酷な年貢米の増徴を命じたのに対し、これを阻止しようと、羽津村組頭であった森多三郎ら17名が先頭に立って藩に抵抗した。その結果、藩は年貢の増徴を断念することになった。その後、多三郎は桑名藩庁に呼ばれて安永の料理屋に行き、毒酒を飲まされ、帰途、この光明寺までたどり着いたところで絶命したと伝えられる。この碑は、当時の羽津村の肝煎、組頭、小前惣代が藩の譲歩を勝ち取った記念に立てたものであり、記念碑の前には、「釋浄諦信士」と刻まれた森多三郎の墓碑が建てられている。

       

 

水準点

国土交通省国土地理院が設置・管理する一等水準点。

   

 

 

明円寺

       

永正年間(1504~1520年)の開基と言われる。
あるいは、元々、天台宗の寺院であったが、本願寺第8代の蓮如上人が当地を訪れた永正12年(1515年)にて本願寺派の寺院となったとも言われる。本願寺第9世実如上人から授与された方便法身画像が宝物として保管されている。

 

 

 

 

 

 

正法寺

       

応永年間(1394~1427年)に羽津城主赤堀右エ門大夫盛宗が開基となり、能登大本山総持寺住持第9世実峯良秀禅師を開山とし、本山直末4ケ寺の一つにあげられる。赤堀家代々の菩提寺として栄えてきたが、天正年間に織田信長の家臣長島城主滝川一益の兵火で灰燼に帰し衰退した。その後の沿革については不明であるが、兵火後百年余りを経て本格的に復興され現在に至っているという。
開山良秀禅師は、総持寺輪住五院の如意庵の開基で、総持寺開祖瑩山紹瑾の跡を受け継いで曹洞宗の教線を全国に広めた峨山詔碩に師事した五哲の俊僧である。また、四日市市内には峨山禅師二十五哲の竺堂了源開山の建福寺があり、三重県下でも四日市は古くから、このニケ寺を中心に同宗派の栄えたところでもあるという。
曹洞宗大本山総持寺御直末寺院で山名は延命山。東海近畿地蔵霊場第二番札所。

四日市市史によると、本堂、鐘楼、庫裡が文化財的価値があるとされている。現本堂は棟札によると安永9年(1780年)3月の建立である。庫裏は本堂とほぼ同時期の建物とみられるが、鐘楼は若干年代が降ると考えられる。山門は一部古材が残るものの、修理の手がかなり入っている。

 

地蔵菩薩坐像

昭和29年4月1日、三重県の有形文化財(彫刻)に指定されている。地蔵菩薩は総高29cmの桧材寄木造で彩色、玉眼を施された鎌倉時代後期のもので、運慶派仏師作という。頭体部は前後二材を寄せ、三道下で割首して頭体を離し、内刳を行い、玉眼を入れている。彩色仕上げで、左右背面は当初のままで、納衣には唐草模様が見られる。円頂で、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、偏袒右肩に袈裟を着け右足を前に外して坐す。
この像は、赤堀右衛門太夫盛宗が、応永年間(1394~1428年)上野国赤堀庄より当地に移り、正法寺を建立した際に本尊としたと伝えられている。
なお、この像の頭部内には、寛永8年(1631年)の奥書をもつ「延命地蔵菩薩経」1巻などの納入品があり、この時に修理が行われたことが分かる。

 

行者さん

境内にある役行者を祀る祠で、元は阿下(今の城山町)の四区のクラブの裏側、羽津城祉付近にあって、これを祭る祭りが9月7日に行われ「行者さんの祭り」と言っていたが、阿下で「しょうかんぽ」という熱病が流行り、それが行者さんの所為ではないかとの噂が広がり、祭りが行われなくなった。これを惜しむ人たちによって、昭和8年(1933年)に祠が現在地に移され、祭りも「あんどん祭り」と形を変えて継続されることになった。

 

 

 

 

浄恩寺

       

過去帳によると天延2年(974年)10月大僧正良源が舟木兵部少輔良兄に招かれて垂坂山でしばらく居住した際に、弟子の覚鎮が当地に斑鳩山大膳寺を創設、天台宗寺院として栄えたのを前身とする。その後、長享2年(1488年)3月、16代円爾のとき本願寺蓮如上人が当地に寄った際、その教化を受けて延徳年間(1489~1490年)に浄土真宗に転じ、大膳寺を出て斑鳩山浄恩寺を起こしたという。この際、蓮如上人から御親筆六字及び十字の名号が与えられ、寺宝として残されている。
第21世空源が伊勢、美濃、三河の僧徒たちと長嶋で一揆を起こし、織田信長に敵対した。空源は7年間に及び先頭に立って防戦に努めたが遂には戦死した。

四日市市史によると、太子堂、山門、鐘楼、本堂に文化財的価値があるとされている。
本堂と重層の太子堂を併立するのは本山格寺院にならうものだが、当初からこのような伽藍を持っていたわけではない。太子堂は明治2年に三光寺(西富田町)から移建されたものであり、現在の本堂は明治28年の建立である。

 

 

本徳寺

       

九鬼文七家の文九郎老夫婦が出家し、大望により寺を持った。その後、朝明郡八幡村の庄屋久志本又佐衛門の三男小太郎を九鬼文七家の養子にとり、本徳寺の跡取りとした。
寺格を得るために山号・寺号が必要になったので、桑名別院(桑名御坊)の輪番を通じて、徳川御三家尾張の将軍羽林次将源義建より山号・寺号の寺格を譲り受けて、嘉永5年(1852年)、初代見徳法師(小太郎)により無量山本徳寺が開基された。
これらの経緯により、八幡村はもとより全村あげて本徳寺に帰依し隆盛を極めたと墓石に刻まれている。現住職(5代目)によると、当寺は九鬼家の寺であって、一般の檀家は持っておらず、文九郎が残した土地などの十分な資産によって維持されてきたそうである。

 

 

八幡延命地蔵

金場の地蔵尊と同じ一つの石から作られた兄弟地蔵で、もとは羽津村の南北の入口(この地蔵は北の入口)に置かれ、村内に疫病が入り込まないようにするための結界地蔵と言われるものであった。昔は、米洗川北側の常夜灯の向かい辺りにあったのが、昭和4年(1929年)に、八幡地区の住民に依って現在地に移設されたという。江戸時代になってから、道中の旅人の安全祈願や延命祈願が強くなり、延命地蔵尊と呼ばれるようになった。この地蔵は頭巾の下に螺髪があるという珍しいもので、よだれかけの下には阿弥陀如来来迎図が隠れている。
毎年8月24日に地蔵盆が行われる。

 

 

 

金場延命地蔵

上記の八幡の地蔵尊と兄弟地蔵で、もとは各々羽津村の南入口にあった結界地蔵であった。
以前は、羽津の東海道の南端、二重川(ふたえがわ)にかかる堺橋のたもとの堤(二重堤)、今の金場町交差点付近にあって正法寺の呼び込み地蔵としての役目も果たしていたという。昭和48年(1973年)市道拡幅工事で二重川が埋め立てられたときに、住民の手で現在地に移設された。
毎年8月24日に地蔵盆が行われる。

 

 

 

 

 

慈弘寺

昭和52年9月1日に仏教道場として開設されたもので、檀家を持たず、現在は専ら水子供養を行っている。